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徐世隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徐 世隆(じょ せいりゅう、1206年 - 1285年)は、金朝およびモンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は威卿。陳州西華県の出身。

概要

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徐世降は弱冠にして1227年(正大4年)の進士に登第し、県令に任じられることとなった[1]。しかし、徐世隆の父は徐世隆がまだ若いことを理由に、さらに学問を究めた上で30歳を過ぎてから仕官するよう戒め、徐世隆はこれに従って職を辞し研鑽を積んだ[1][2]

1232年壬辰)には父が死去したため、1233年癸巳)に徐世隆は母とともに黄河を北に渡り、モンゴルに仕える漢人世侯厳実の招聘を受けその書記となった[1]1252年(壬子)、このころ東アジア方面遠征軍の司令官に任命されたクビライが徐世隆を召し出し、直近の雲南・大理遠征について意見を聞いた[3]。そこで徐世隆は孟子の言葉を引いてなるべく殺人を避けるよう答え、クビライも徐世隆の意見を受け入れたという[3]。クビライは徐世隆を側近としようとしたが、徐世隆は老母の存在を理由にこれを辞し、厳実が死去するとその息子厳忠済に仕えるようになった[1][4]

1260年(中統元年)、クビライが即位すると燕京等路宣撫副使に抜擢され、1261年(中統2年)5月に上官の李徳輝が罷免された後、宣撫使に昇格となった[5]。同年中には燕京等路の治所を順天(保定)に移し、同年の飢饉の対応を行っている[6]1262年(中統3年)には宣撫司を罷免となり、徐世隆は一時東平に帰った。 1263年(中統4年)、クビライは徐世降を召し出しての事蹟を尋ね、徐世隆の解説を聞くと、モンゴル語に訳して訳書を作成するよう命じたという[7]

1264年(至元元年)には翰林侍講学士・兼太常卿の地位に遷り、詔命典冊の作成に携わったほか、祭祀の制定にも尽力した。1270年(至元7年)には吏部尚書の地位に遷った[8]

1272年(至元9年)には東昌路総管に任じられ、徳を以て配下の官吏を率いたことから不正がなくなり、現地の民からたたえられたという。1277年(至元14年)には山東提刑按察使の地位に移り、この時妖言を弄した罪で捕らえられた数百名の内、18,9名は無実であると調べ上げ釈放した逸話が伝えられている。1278年(至元15年)には淮東に移り、このころ日本遠征(文永の役)の計画が始まると、これに反対している[9]

1280年(至元17年)には召し出されて翰林学士、また集賢学士の職につけられようとしたが、いずれも病を理由に固辞している。1285年(至元22年)、アントン・ノヤンが丞相として復帰すると、老齢とはいえ徐世隆は起用すべき人材であると上奏したが、やはり徐世隆は老齢を理由にこれを辞して、それからまもなく80歳にして亡くなった[10]

脚注

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  1. ^ a b c d 牧野2012,360頁
  2. ^ 『元史』巻160列伝47徐世隆伝,「徐世隆字威卿、陳州西華人。弱冠、登金正大四年進士第、辟為県令。其父戒世隆曰『汝年少、学未至、毋急仕進、更当読書、多識往事、以益智識、俟三十入官、未晚也』。世隆遂辞官、益篤于学」
  3. ^ a b 牧野2012,361頁
  4. ^ 『元史』巻160列伝47徐世隆伝,「歳壬辰、父歿。癸巳、世隆奉母北渡河、厳実招致東平幕府、俾掌書記。世隆勧実收養寒素、一時名士多帰之。憲宗即位、以為拘榷燕京路課税官、世隆固辞。壬子、世祖在潜邸、召見于日月山。時方図征雲南、以問世隆、対曰『孟子有言『不嗜殺人者能一之』。夫君人者、不嗜殺人、天下可定、況蕞爾之西南夷乎』。世祖曰『誠如卿言、吾事濟矣』。実時得金太常登歌楽、世祖遣使取之観、世隆典領以行、既見、世祖欲留之、世隆以母老辞。実子忠濟以世隆為東平行台経歴、於是益賛忠濟興学養士」
  5. ^ 牧野2012,313-314頁
  6. ^ 牧野2012,313頁
  7. ^ 『元史』巻160列伝47徐世隆伝,「中統元年、擢燕京等路宣撫使、世隆以新民善俗為務。中書省檄諸路養禁衛之羸馬、数以万計、芻秣与其什器、前期戒備。世隆曰『国馬牧於北方、往年無飼於南者。上新臨天下、京畿根本地、煩擾之事、必不為之。馬将不来』。吏白『此軍需也、其責勿軽』。世隆曰『責当我坐』。遂弗為備、馬果不至。清滄塩課、前政虧不及額、世隆綜覈之、得増羨若干、賜銀三十鋌。二年、移治順天、歳饑、世隆発廩貸之、全活甚衆。三年、宣撫司罷、世隆還東平、請増宮県大楽・文武二舞、令旧工教習、以備大祀、制可。除世隆太常卿以掌之、兼提挙本路学校事。四年、世祖問堯・舜・禹・湯為君之道、世隆取書所載帝王事以対、帝喜曰『汝為朕直解進読、我将聴之』。書成、帝命翰林承旨安藏譯寫以進」
  8. ^ 『元史』巻160列伝47徐世隆伝,「至元元年、遷翰林侍講学士、兼太常卿、朝廷大政諮訪而後行、詔命典冊多出其手。世隆奏『陛下帝中国、当行中国事。事之大者、首惟祭祀、祭必有廟。』因以図上、乞敕有司以時興建、従之、踰年而廟成。遂迎祖宗神御、奉安太室、而大饗礼成。帝悦、賞賜優渥。俄兼戸部侍郎、承詔議立三省、遂定内外官制上之。時朝儀未立、世隆奏曰『今四海一家、万国会同、朝廷之礼、不可不肅、宜定百官朝会儀』、従之。七年、遷吏部尚書、世隆以銓選無可守之法、為撰選曹八議」
  9. ^ 『元史』巻160列伝47徐世隆伝,「九年、乞補外、佩虎符、為東昌路総管。至郡、專務以徳率下、不事鞭箠、吏不忍欺、民亦化服、期年而政成、郡人頌之。十四年、起為山東提刑按察使。時有妖言獄、所司逮捕凡数百人、世隆剖析詿誤者十八九、悉縦遣之。十五年、移淮東。宋将許瓊家童告瓊匿官庫財、有司繫其妻孥徵之。世隆曰『瓊所匿者、故宋之物、豈得与今盜官財者同論耶』。同僚不従、世隆独抗章辯明、行台是之、釈不問。会征日本、世隆上疏諫止、語頗剴切、当路者不即以聞、已而帝意悟、其事亦寢」
  10. ^ 『元史』巻160列伝47徐世隆伝,「十七年、召為翰林学士、又召為集賢学士、皆以疾辞。世隆儀観魁梧、襟度宏博、慈祥楽易。人忤之、無慍色。喜賓客、楽施与、明習前代典故、尤精律令、善決疑獄。二十二年、安童再入相、奏世隆雖老、尚可用。遣使召之、仍以老病辞、附奏便宜九事。賜田十頃。時年八十、卒。所著有瀛洲集百巻・文集若干巻」

参考文献

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  • 元史』巻160列伝47徐世隆伝
  • 新元史』巻185列伝82徐世隆伝
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年