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閻復

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

閻 復(えん ふく、1236年 - 1312年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は子靖(子静)。真定府の出身。東平四傑の一人に数えられる。

概要

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閻復の先祖は平陽和州の住人であったが、祖父の閻衍が金朝に仕えて戦没し、父の閻忠は兵乱を避けて山東地方高唐州に移住した。閻復は生まれた時に奇光が部屋を照らしたとの逸話があり、7歳より読書を始めて長ずると東平府学に入った。東平では著名な儒者の康曄に師事し、東平を支配する厳実の要請を受けて元好問が課した試験に主席で合格した。この時選ばれた徐琰李謙孟祺ら4名は、東平四傑と評されている[1]

1259年己未)、はじめて東平行台の書記を掌握し、御史掾の地位に就いた。1271年(至元8年)、王磐の推薦を得て翰林応奉、ついで会同館副使・兼接伴使の地位に就いた。このころ、クビライが上都に移動する時に詩2編を制作したところ、クビライはその出来映えに感嘆し、側近のコルコスンに「このような才がありながら、なぜ重用しないのか」と語ったとの逸話がある。その後、1275年(至元12年)には翰林修撰、1277年(至元14年)には僉河北河南道提刑按察司事、1279年(至元16年)には翰林直学士、1282年(至元19年)には侍講学士、1283年(至元20年)には集賢侍講学士、同領会同館事をそれぞれ歴任した[2]

1286年(至元23年)には翰林学士となり、しばしばクビライの側近くに召し出されて重用されるようになった。1291年(至元28年)、サンガの失脚に伴って尚書省の廃止・中書省の復活が行われたため、閻復も中書省の高官となることを請われたが辞退し、代わりに浙西道肅政廉訪使に任じられた。ところが、かつてサンガが自らを讃える碑文を翰林に作らせようとしており、これに関わったことを理由に閻復は免官されてしまった[3]

1294年(至元31年)、クビライが死去してテムルがオルジェイトゥ・カアンとして測位すると、閻復も再び召し出されて集賢学士の地位を与えられた。1295年(元貞元年)には宣聖廟学の建設や、曲阜孔子廟の復興に携わった。1297年(元貞3年/大徳元年)、2月27日に彗星が観測された際には多くの上疏を行って採用され、また翰林学士の地位に移った。1298年(大徳2年)には楮幣万貫を下賜され、1300年(大徳4年)にはオルジェイトゥ・カアンより中書省左丞相の人選を問われてハルガスンを推薦したとの逸話がある。また同年中には翰林学士承旨に昇格となっている[4]

1307年(大徳11年)春、オルジェイトゥ・カアンが死去してカイシャン(武宗クルク・カアン)が即位した時には、『名器を惜しみ、賞罰を明らかにし、人材を択ぶ』という三事を伝えたという。また、このころ平章政事に任じられ、閻復はこれを辞退するも許されなかった。その後、クルク・カアンが急死してその弟アユルバルワダ(仁宗ブヤント・カアン)が即位し、閻復を召し出そうとするも、既に病にかかっておりこれを辞退した。1312年(皇慶元年)3月に77歳にして死去し、文康と諡された[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻160列伝47閻復伝,「閻復字子靖、其先平陽和州人。祖衍、仕金、歿王事。父忠、避兵山東之高唐、遂家焉。復始生、有奇光照室。性簡重、美丰儀。七歳読書、穎悟絶人。弱冠入東平学、師事名儒康曄。時厳実領東平行台、招諸生肄進士業、迎元好問校試其文、預選者四人、復為首、徐琰・李謙・孟祺次之」
  2. ^ 『元史』巻160列伝47閻復伝,「歳己未、始掌書記於行台、擢御史掾。至元八年、用王磐薦、為翰林応奉、以才選充会同館副使、兼接伴使。扈駕上京、賦応制詩二篇、寓規諷意、世祖顧和礼霍孫曰『有才如此、何可不用』。十二年、陞翰林修撰。十四年、出僉河北河南道提刑按察司事、階奉訓大夫。十六年、入為翰林直学士、以州郡校官多不職、建議定銓選之法。十九年、陞侍講学士。明年、改集賢侍講学士、同領会同館事」
  3. ^ 『元史』巻160列伝47閻復伝,「二十三年、陞翰林学士、帝屢召至榻前、面諭詔旨、具草以進、帝称善。二十八年、尚書省罷、復立中書省。帝勵精図治、急於択相、一日、召入便殿、諭之曰『朕欲命卿執政、何如』。復屢謝不足勝任、帝謂侍臣曰『書生識義理、存謙讓、是也、勿強』。御史台改提刑按察司為肅政廉訪司、首命復為浙西道肅政廉訪使。先是、姦臣桑哥当国、嘗有旨命翰林撰桑哥輔政碑、桑哥既敗、詔有司踣其碑、復等亦坐是免官」
  4. ^ 『元史』巻160列伝47閻復伝,「三十一年、成宗即位、以旧臣召入朝、賜重錦・玉環・白金、除集賢学士、階正議大夫。元貞元年、上疏言『京師宜首建宣聖廟学、定用釈奠雅楽』。従之。又言『曲阜守塚戸、昨有司併入民籍、宜復之』。其後詔賜孔林洒掃二十八戸・祀田五千畝、皆復之請也。三年、因星変、又上疏言『定律令、頒封贈、増俸給、通調内外官』。且曰『古者、刑不上大夫、今郡守以徵租受杖、非所以厲廉隅。江南公田租重、宜減、以貸貧民』。後多采用。大徳元年、仍遷翰林学士。二年、詔賜楮幣万貫。四年、帝召至榻前、密諭之曰『中書庶務繁重、左相難其人、卿為朕挙所知』。復以哈剌哈孫対。帝大喜、即遣使召入、相之。復亦拝翰林学士承旨、階正奉大夫」
  5. ^ 『元史』巻160列伝47閻復伝,「十一年春、武宗踐祚、復首陳三事、曰『惜名器、明賞罰、択人材』、言皆剴切。未幾、進階栄禄大夫、遙授平章政事、餘如故、復力辞、不許。上疏乞骸骨、詔従其請、給半俸終養。時仁宗居東宮、賜以重錦、俾公卿祖道都門外。及即位、遣使召復、復以病辞。皇慶元年三月卒、年七十七、諡文康。有静軒集五十巻」

参考文献

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