王磐 (元)
王 磐(おう はん、? - ?)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は文炳。広平永年県の出身。
概要
[編集]王磐の先祖は代々農を家業とする家であったが、1年に万石を収穫するほどの豪農となったため、郷里では「万石王家」と呼ばれていたという。王磐の父王禧は、金朝末期に私材を投じて軍を起こし、進義副尉に任じられたが、モンゴル軍の侵攻を受けて永年城は陥落してしまった。この時、王禧が私材を軍費として提供する事で、城民の命を救ったと伝えられる。金朝が朝廷を河南の開封に移すと、王家もこれに従って河南の汝之廬山に移住した[1]。
成長した王磐は郾城の下で学んだが、貧しい暮らしを余儀なくされた。26歳の時、正大4年(丁亥/1227年)の経義進士に登第し、帰徳府録事判官に任じられたが、任地に赴くことはなかった[2]。しかし1230年代、モンゴル軍の侵攻によって河南一帯が戦火に巻き込まれると、王磐は南宋領の淮河襄陽に避難した[2]。そこで荊湖制置司に見出され、議事官の地位を授けられている。しかし、1236年(丙申)にモンゴル軍と南宋軍の戦闘が始まると、再び北方に戻ってモンゴル領華北の洛西に入った[2]。そこでモンゴルに使える楊惟中が儒士を招集していたのに応え、河内に寓居するようになった。その後、東平総管の厳実に迎え入れられて講学を始め、王磐の教えを受ける者は常時数百人を数え、その多くは後に名士となったという[3]。
1260年(中統元年)、第4代皇帝モンケの急死にともなってクビライが皇帝位に就くと、王磐は益都等路宣撫副使に抜擢された[4]。。その後病のために地位を退くと、益都路を支配する漢人世侯の李璮に重用され、益都路青州の風土を好んでいた王磐は「鹿菴」と名付けた住居を築いてこの地に住まった。しかし李璮がクビライへの反乱を計画していることを察知すると、王磐はまず済南に逃れ、そこで駅馬を得て京師のクビライに急報した[2]。これを聞いたクビライはすぐに王磐を召し出し、その誠節を嘉して参議行省事の地位を授けた。李璮の乱の平定後、王磐は翰林直学士・同脩国史の地位を授けられた[5]。
その後、真定・順徳等路宣慰使の地位に就いた時には、衡水県ダルガチのマングタイ(忙兀䚟)が不法な手段で県民を苦しめており、さらにそれを告発しようとした趙清の父母妻子を殺害した上で悪事を隠蔽しようとした件を取り上げ、公平な裁きを行っている。また、真定地方で蝗害が起こった時、朝廷は使者を派遣した上で役夫四万人を動員し、さらに近隣の地域から役夫を募ろうとした。しかし王磐は「4万人でも多すぎるのに、どうして他の郡を煩わせる必要があるのか」と述べて使者を怒らせたが、王磐はみずから田の間を走って蝗を捉える方法を教示して回ることにより3日で蝗を駆逐することに成功し、使者は驚いて神のようであると讃えたという[6]。
中央に戻り翰林学士の地位に復すると、転運司という官署が民を苦しめていると述べ、これを廃止とするよう働きかけた。また、このころ尚書省長官のアフマド・ファナーカティーが勢力拡大のため、右丞相アントンを長とする中書省と尚書省の合併を画策したが、王磐が強く反対してこれをやめさせた。この後太常少卿の地位に遷ることとなり、一旦は辞退しようとするも、許されなかった。このころ、宮殿は未だ建設中で朝儀も定まっておらず、称賀のために雑多な者が帳殿(ゲル)の前に集い騒擾を起こすという問題があったため、宣徽院による儀礼制度を整備したという[7]。
また、それまで曲阜の孔子廟の維持を担ってきた民百戸を尚書省が取り上げようとした時は、国体を損なうものであると反対し中止に追い込んでいる。またこのころ、再び職を辞そうとしたが、許されなかった。しかし王磐は病がちになって家に居ることが多くなったため、クビライは使者を遣わして名薬を下賜したという[8]。
南宋侵攻を目前に控えて、帷幄での謀議が決まらなかった時は、しばしば王磐に使者を派遣して意見を聞くことがあった。しかしある時、クビライが日本出兵(文永の役)について相談したときは、「今は南宋討伐に全力をそそぐべきで、南宋が滅んでから日本出兵を図っても遅くない」と述べて反対したという[9]。
またある時、朝廷で冗官(余分な官)が議題になると、地方の按察司を併合して官を減らそうという意見が出た。これに対し、王磐は貪官污吏に苦しめられる地方の民はただ按察司のみを頼りとしており、按察司を削減してしまえば冤罪によって死罪となる民が増えるだろうと述べて反対し、これによって按察司の廃止は取りやめとなったという[10]。
南宋平定が一段落し、日本への二度目の出兵(弘安の役)が計画されると、王磐は日本が海を隔てて出兵に困難なことを理由に再び反対した。しかしクビライはこれに激怒し王磐の意図を疑ったが、王磐はあくまで国のため述べた反対であり、今や80歳を越え子もいないのにどんな意図があろうか、と答えた。そこでクビライは翌日に使者を派遣して王磐を慰撫し、碧玉の宝枕を下賜したという[11]。
いよいよ年老いた王磐は遂に丞相のコルコスンを通じて職を辞し、これを聞いた皇太子チンキムが王磐を招いて慰問した上、公卿百官も宴を設けて餞別とした。またチンキムは聖安寺でも宴を行い、その後公卿百官から見送られて麗沢門から出て行った。王磐には男子がいなかったが、壻の李穉賓が東平判官となって王磐を養った。王磐の性格は剛方で、妄りに笑うことはなく、上奏の際は必ず公正であるよう務め、誤った意見に賛同することはなかったという。また、王磐の推薦した宋衜・雷膺・魏初・徐琰・胡祗遹・孟祺・李謙らはみな名臣として知られるに至った。92才の時に亡くなり、洺国公と追封され、文忠と諡された[12]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「王磐字文炳、広平永年人。世業農、歳得麥万石、鄉人号万石王家。父禧、金末入財佐軍興、補進義副尉。国兵破永年、将屠其城、禧復罄家貲以助軍費、衆賴以免。金人遷汴、乃挙家南渡河、居汝之魯山」
- ^ a b c d 高橋2016,89頁
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「磐年方冠、従麻九疇学于郾城、客居貧甚、日作糜一器、畫為朝暮食。年二十六、擢正大四年経義進士第、授帰徳府録事判官、不赴。自是大肆力於経史百氏、文辞宏放、浩無涯涘。及河南被兵、磐避難、転入淮・襄間、宋荊湖制置司素知其名、辟為議事官。丙申、襄陽兵変、乃北帰、至洛西、会楊惟中被旨招集儒士、得磐、深礼遇之、遂寓河内。東平総管厳実興学養士、迎磐為師、受業者常数百人、後多為名士」
- ^ 牧野2012,196/248頁
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「中統元年、即拝益都等路宣撫副使、居頃之、以疾免。李璮素重磐、以礼延致之、磐亦楽青州風土、乃買田渳河之上、題其居曰鹿菴、有終焉之意。及璮謀不軌、磐覺之、脱身至濟南、得駅馬馳去、入京師、因侍臣以聞。世祖即日召見、嘉其誠節、撫労甚厚。璮拠濟南、大軍討之、帝命磐参議行省事。璮平、遂挈妻子至東平。召拝翰林直学士、同脩国史」
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「出為真定・順徳等路宣慰使。衡水県達魯花赤忙兀䚟、貪暴不法、県民苦之。有趙清者、発其罪、既具伏矣、適初置監司、其妻懼無以滅口、召家人飲酒至醉、以利啗之、使夜殺清、清逃獲免、乃尽殺其父母妻子。清訴諸官、権要蔽忙兀䚟、不為理、又欲反其具獄。磐竟奏置諸法、籍其家貲、以半給清。郡有西域大賈、称貸取息、有不時償者、輒置獄于家、拘繫榜掠。其人且恃勢干官府、直来坐廳事、指麾自若。磐大怒、叱左右捽下、箠之数十。時府治寓城上、即擠諸城下、幾死、郡人称快。未幾、蝗起真定、朝廷遣使者督捕、役夫四万人、以為不足、欲牒鄰道助之。磐曰『四万人多矣、何煩他郡』。使者怒、責磐状、期三日尽捕蝗、磐不為動、親率役夫走田間、設方法督捕之、三日而蝗尽滅、使者驚以為神」
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「復入翰林為学士、入謁宰相、首言『方今害民之吏、転運司為甚、至税人白骨、宜罷去之、以蘇民力』。由是運司遂罷。阿合馬諷大臣、請合中書・尚書両省為一、拝右丞相安童為三公、陰欲奪其政柄。有詔会議、磐言『合両省為一、而以右丞相総之、実便、不然、則宜仍旧、三公既不預政事、則不宜虚設』。其議遂沮。遷太常少卿、乞致仕、不允。時宮闕未建、朝儀未立、凡遇称賀、臣庶雜至帳殿前、執法者患其諠擾、不能禁。磐上疏曰『按旧制天子宮門、不応入而入者、謂之闌入。闌入之罪、由第一門至第三門、輕重有差。宜令宣徽院、籍両省而下百官姓名、各依班序、聴通事舍人傳呼贊引、然後進。其越次者、殿中司糾察定罰、不応入而入者、準闌入罪、庶朝廷之礼、漸可整肅』。於是儀制始定」
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「曲阜孔子廟、歴代給民百戸、以供洒掃、復其家、至是、尚書省以括戸之故、尽收為民、磐言『林廟戸百家、歳賦鈔不過六百貫、僅比一六品官終年俸耳。聖朝疆宇万里、財賦歳億万計、豈愛一六品官俸、不以待孔子哉。且於府庫所益無多、其損国体甚大』。時論韙之。帝以天下獄囚滋多、敕諸路自死罪以下、縦遣帰家、期秋八月、悉来京師聴決、囚如期至、帝惻然憐之、尽原其罪。他日、命詞臣作詔、戒喻天下、皆不称旨意、磐独以縦囚之意命辞、帝喜曰『此朕所欲言而不能者、卿乃能為朕言之』。嘉奬不已、取酒賜之。再乞致仕、不允。国子祭酒許衡将告帰、帝遣近臣問磐、磐言『衡素廉介、意其所以求退者、得非生員数少、坐縻廩禄、有所不安耶。宜増益生員、使之施教、則庶幾人材有成、衡之受禄亦可少安矣』。詔従之。磐移疾家居、帝遣使存問、賜以名薬。磐嘗於会集議事之際、数言『前代用人、二十従政、七十致仕、所以資其材力、閔其衰老、養其廉耻之心也。今入仕者不限年、而老病者不能退、彼既不自知耻、朝廷亦不以為非、甚不可也』。至是、以疾、請断月俸毋給、自秋及春、堅乞致仕。帝遣使慰諭之曰『卿年雖老、非任劇務、何以辞為』。仍詔禄之終身、併還所断月俸。磐不得已、復起」
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「時方伐宋、凡帷幄謀議、有所未決、即遣使問之、磐所敷陳、每称上意。帝将用兵日本、問以便宜、磐言『今方伐宋、当用吾全力、庶可一挙取之。若復分力東夷、恐曠日持久、功卒難成。俟宋滅、徐図之未晚也』。江南既下、磐上疏、大略言『禁戢軍士、選択官吏、賞功罰罪、推広恩信、所以撫安新附、銷弭寇盜』。其言要切、皆見施行」
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「朝議汰冗官、権近私以按察司不便、欲併省之。磐奏疏曰『各路州郡、去京師遙遠、貪官污吏、侵害小民、無所控告、惟賴按察司為之申理。若指為冗官、一例罷去、則小民寃死而無所訴矣。若曰京師有御史台糾察四方之事、是大不然。夫御史台、糾察朝廷百官・京畿州県、尚有弗及、況能周徧外路千百城之事乎。若欲併入運司、運司專以営利増課為職、与管民官常分彼此、豈暇顧細民之寃抑哉』。由是按察司得不罷。朝廷録平宋功、遷至宰相執政者二十餘人、因議更定官制、磐奏疏曰『歴代制度、有官品、有爵号、有職位、官爵所以示栄寵、職位所以委事権。臣下有功有労、隨其大小、酬以官爵、有才有能、称其所堪、処以職位、此人君御下之術也。臣以為有功者、宜加遷散官、或賜五等爵号、如漢・唐封侯之制可也、不宜任以職位』」
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「日本之役、師行有期、磐入諫曰『日本小夷、海道險遠、勝之則不武、不勝則損威、臣以為勿伐便』。帝震怒、謂非所宜言、且曰『此在吾国法、言者不赦、汝豈有他心而然耶』。磐対曰『臣赤心為国、故敢以言、苟有他心、何為従叛乱之地、冒万死而来帰乎。今臣年已八十、況無子嗣、他心欲何為耶』。明日、帝遣侍臣以温言慰撫、使無憂懼。後閱内府珍玩、有碧玉宝枕、因出賜之」
- ^ 『元史』巻160列伝47王磐伝,「磐以年老、累乞骸骨。丞相和礼霍孫為言、詔允其請、進資徳大夫、致仕、仍給半俸終身。皇太子聞其去、召入宮、賜食、慰問良久。行之日、公卿百官皆設宴以餞。明日、皇太子賜宴聖安寺、公卿百官出送麗沢門外、縉紳以為栄。磐無子、命其壻著作郎李穉賓為東平判官、以便養。每大臣燕見、帝数問磐起居状、始終眷顧不衰。磐資性剛方、閑居不妄言笑、每奏対、必以正、不肯阿意承順、帝嘗以古直称之、雖権倖側目、弗顧也。阿合馬方得権、致重幣求文于碑、磐拒弗与。所薦宋衜・雷膺・魏初・徐琰・胡祗遹・孟祺・李謙、後皆為名臣。年至九十二、卒之夕、有大星隕正寢之東。贈端貞雅亮佐治功臣・太傅・開府儀同三司、追封洺国公、諡文忠」