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楊惟中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊惟中(よう いちゅう、1205年 - 1259年)とは、13世紀前半にモンゴル帝国に仕えた漢人官僚の一人。字は彦誠。モンゴル帝国の漢地(ヒタイ)統治機関に属し、最初期のモンゴルによる華北統治体制確立に尽力したことで知られる。

概要

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楊惟中は弘州(現在の河南省張家口市陽原県)の出身で、末の動乱期に孤児となったことからモンゴル帝国に属し、チンギス・カンの第3子オゴデイに仕えるようになった。20歳になった時、楊惟中は西域中央アジア)諸国に派遣され、政令・條格の布告、人口調査による戸口の登録などにより、現地の統治体制を整えた。チンギス・カンの没後、オゴデイが後継者として即位すると、中央アジアから東方に帰還した楊惟中は大いに用いられるようになったという[1]

1235年、オゴデイの息子クチュを総司令とする南宋侵攻が始まると、楊惟中は元女真人貴族のチュンシャン(粘合重山)[2]とともに「軍前行中書省事」に任じられた。ここで言う「行中書省事」とは、後年の行政単位としての「行中書省」とは異なり、金代の用法に基づいた「地方に派遣された重臣の下に開設される臨時的官府」を指す。文官たる楊惟中とチュンシャンはクチュ率いる軍司令部(軍前行中書省事)の補給などを担当したとみられる[3]。モンゴル軍は南宋の棗陽軍光化軍光州随州郢州復州などを攻略したが、楊惟中らは征服地で得た名士・書物を燕都(金朝の首都中都の別称、後の大都)に送り、太極書院を設立して学問の振興を図った。その後、楊惟中は「中書令(中書省のトップ)」となり、太后ドレゲネの統治期には宰相として活躍したとされるが[4]、南宋からの使者が指摘するようにこの頃の「中書省」「中書令」はモンゴル朝廷が定めた正式な官府・役職ではなく、モンゴルに仕えた漢人の勝手な自称に過ぎない[5]

1246年グユクが第3代皇帝として即位した頃、平陽道に赴任していたジャルグチ(断事官)のシュチェが不法行為を行っていたため、命を受けた楊惟中がこれを誅伐した[6]。この頃、モンゴルに対して叛乱を起こして誅殺された武仙の残党が太原路真定路一帯に散らばり、金朝の年号(開興)を用いてモンゴルの支配に反抗していた。反乱軍は数万を数え、叛乱鎮圧軍を幾度か撃退したが、楊惟中が叛乱の首魁を説得して投降させたことにより、ようやく平定された[7]

1251年モンケが第4代皇帝として即位すると、その弟クビライが東アジア方面の司令官に抜擢され、金蓮川(ドロン・ノール、後の上都)を自らの拠点と定めた。クビライの軍司令部に属した楊惟中は河南道経略司とされ、河南一帯の統治に携わることになった。金朝の滅亡後、モンゴルより「河南道総管」としてこの地を任されていた劉福は過酷な取り立てで20年余りにわたって民を苦しめており、事情を知った楊惟中はすぐに劉福を呼び出した。しかし劉福は仮病を理由に呼び出しになかなか応じず、楊惟中が呼び出しに応じなければ軍法に従って処断するとの脅しを聞いてやむを得ず出頭した。劉福は処断をされることを恐れて数千人の護衛を引き連れて楊惟中の下を訪れたが、楊惟中は兵を用いず自ら大梃で劉福を殴り倒し、この傷が元で劉福は間もなく亡くなった。劉福が死去したため、河南の地はよく治まったという。その後、陝右四川宣撫使に移り、男性を殺しその妻を奪うなどの悪行を繰り返していた郭千戸を処断し、軍の綱紀を正した[8]

1259年、楊惟中江淮京湖南北路宣撫使とされ、現地のモンゴル・漢軍を総べた。その後、間もなく蔡州にて55歳で亡くなった。後に、忠粛公と諡されている[9]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻146列伝33楊惟中伝,「楊惟中字彦誠、弘州人。金末、以孤童子事太宗、知読書、有膽略、太宗器之。年二十、奉命使西域三十餘国、宣暢国威、敷布政條、俾皆籍戸口属吏、乃帰、帝於是有大用意」
  2. ^ 『元史』巻146列伝33粘合重山伝,「粘合重山、金源貴族也。……太宗七年、従伐宋、詔軍前行中書省事、許以便宜」
  3. ^ 牧野2012,145-146頁
  4. ^ 『元史』巻146列伝33楊惟中伝,「皇子闊出伐宋、命惟中於軍前行中書省事。克宋棗陽・光化等軍、光・随・郢・復等州、及襄陽・徳安府、凡得名士数十人、収伊・洛諸書送燕都、立宋大儒周惇頤祠、建太極書院、延儒士趙復・王粋等講授其間、遂通聖賢学、慨然欲以道済天下。拝中書令。太宗崩、太后称制、惟中以一相負任天下」
  5. ^ 前田1973,145-146頁
  6. ^ 牧野2012,163-164頁
  7. ^ 『元史』巻146列伝33楊惟中伝,「定宗即位、平陽道断事官斜徹横恣不法、詔惟中宣慰、惟中按誅之。金亡、其将武仙潰于鄧州、餘党散入太原・真定間、拠大明川、用金開興年号、衆至数万、剽掠数千里、詔会諸道兵討之、不克。惟中仗節開諭、降其渠帥、餘党悉平」
  8. ^ 『元史』巻146列伝33楊惟中伝,「憲宗即位、世祖以太弟鎮金蓮川、得開府専封拝、乃立河南道経略司於汴梁、奏惟中等為使、俾屯田唐・鄧・申・裕・嵩・汝・蔡・息・亳・潁諸州。初滅金時、以監河橋万戸劉福為河南道総管、福貪鄙残酷、虐害遺民二十餘年。惟中至、召福聴約束、福称疾不至、惟中設大梃於坐、復召之、使謂福曰『汝不奉命、吾以軍法従事』。福不得已、以数千人擁衛見惟中、惟中即握大梃撃仆之。数日、福死、河南大治。遷陝右四川宣撫使。時諸軍帥横侈病民、郭千戸者尤甚、殺人之夫而奪其妻、惟中戮之以徇、関中粛然。語人曰『吾非好殺、国家綱紀不立、致此輩賊害良民、無所控告、雖欲不去可乎』」
  9. ^ 『元史』巻146列伝33楊惟中伝,「歳己未、世祖総統東師、奏惟中為江淮京湖南北路宣撫使、俾建行台、以先啓行、宣布恩信、蒙古・漢軍諸帥並聴節制。師還、卒于蔡州、年五十五。中統二年、追諡曰忠粛公」

参考文献

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  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 前田直典『元朝史の研究』東京大学出版会、1973年
  • 元史』146列伝33楊惟中伝
  • 新元史』巻133列伝30楊惟中伝
  • 蒙兀児史記』巻61列伝43耶律楚材伝
  • 国朝名臣事略』巻5中書楊忠肅公