木下哲
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木下哲 きのした てつ | |
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生年月日 | 1911年6月 |
出生地 |
日本 大分県宇佐郡安心院村 (現大分県宇佐市) |
没年月日 | 1961年7月25日 |
出身校 | 日本大学法律学科卒業 |
所属政党 |
(右派社会党→) (日本社会党→) 民主社会党 |
子女 | 長男・木下敬之助 |
親族 | 兄・木下郁(大分県知事) |
選挙区 | 旧大分1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1955年2月27日 - 1960年10月24日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年 - 1955年 |
木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月[1] - 1961年(昭和36年)7月25日[1])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]大分県[1]宇佐郡安心院村(安心院町[2]を経て現宇佐市)で、木下淳太郎、ウメの息子として生まれる[3]。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て[2]、1935年(昭和10年)日本大学法律学科を卒業した[1][2]。
家業の弁当屋・梅乃屋を継承した[2]。兄木下郁から影響を受け、1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、1947年(昭和22年)大分県議会議員に当選し2期在任[1][2]。この間、社会党大分県連書記長、同会長を務めた[2]。1955年(昭和30年)兄の郁が大分県知事選挙に転じたことに伴い、同年2月の第27回衆議院議員総選挙で大分県第1区から右派社会党公認で出馬して初当選し[4]、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では社会党公認で出馬して再選され[4]、衆議院議員に連続2期在任した[1][2]。この間、社会党情報部副部長などを務めた[1]。1960年(昭和35年)民主社会党(民社党)の結成に参画し、同党大分県連の初代会長に就任した[2]。同年11月の第29回総選挙に立候補したが次点で落選した[4]。
その他、大分県PTA連合会長、大分鉄道構内営業 (有) 社長などを務めた[2]。また、少年時代から野球、柔道の選手として活躍し、1958年(昭和33年)大分県体育協会長に就任した[2]。
伝記
[編集]- 木下哲編集委員会編『木下哲』木下哲編集委員会、1962年。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。