有馬輝武
有馬 輝武 ありま てるたけ | |
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生年月日 | 1920年6月20日 |
出生地 | 鹿児島県 |
没年月日 | 2003年1月10日(82歳没) |
死没地 | 東京都文京区 |
出身校 | 明治大学商学部卒業 |
所属政党 |
(左派社会党→) 日本社会党 |
称号 |
従四位 勲三等旭日中綬章 |
選挙区 | 旧鹿児島3区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1955年2月27日 - 1958年4月25日 1960年11月20日 - 1966年12月27日 |
有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20日[1] - 2003年(平成15年)1月10日[1])は、昭和期の農林技官、労働運動家、政治家、俳人。衆議院議員(3期)。俳号・明彦(あきひこ)[1]。
経歴
[編集]鹿児島県出身[1][2]。海軍予備学生として出征し、海軍中尉で解員(復員)した[2]。1946年(昭和21年)明治大学商学部を卒業した[1][2]。
農林省に入省し農林技官兼農林事務官に任官[2]。その後、全食糧労働組合中央執行副委員長、同中央執行委員長、全農林労働組合中央執行副委員長、同書記長、同中央執行委員長、鹿児島地方労働組合評議会事務局長などを務めた[1][2]。
1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙で鹿児島県第3区から左派社会党公認で出馬したが落選[3]。1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙に出馬し初当選[2][4]。次の第28回総選挙では次点で落選[4]。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙で再選され[4]、さらに第30回総選挙でも当選し[5]、衆議院議員に通算3期在任した[1][2]。この間、日本社会党文化委員会事務局長、同党政策審議会金融財政副委員長、同大蔵部会長などを務めた[2]。その後、第31回、第32回総選挙に立候補したがいずれも次点で落選した[5]。
その後、国際農友会理事、SPプロダクション会長、衆議院前議員会常任理事などを務めた[2]。また、学校法人嘉数女子学園の経営に参画し、1976年(昭和51年)4月から1977年(昭和52年)2月まで理事長に就任し、この間、沖縄女子短期大学学長代行も務めた[2][6]。
2003年(平成15年)1月10日、腎盂癌のため東京都文京区の病院で死去、82歳[7]。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、従七位から従四位に叙される[8]。
著作
[編集]- 『月曜:句集』野火書房、1964年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『現代物故者事典 2003~2005』日外アソシエーツ、2006年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
- 学校法人嘉数女子学園『事業報告書(平成29年度)』 ※2020年4月2日閲覧