春日 (装甲巡洋艦)
春日 | |
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基本情報 | |
建造所 | アンサルド造船所(イタリア・ジェノバ)[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 装甲巡洋艦[2](一等巡洋艦) |
艦歴 | |
起工 | 1902年3月10日[2] |
進水 | 1902年10月22日[2] |
竣工 | 1904年1月7日[2] |
最期 | 1945年7月18日戦没 |
除籍 | 1945年11月30日 |
要目(竣工時) | |
排水量 | 7,700トン |
全長 | 105.0 m |
最大幅 | 18.7m |
吃水 | 7.29m |
ボイラー | 石炭専燃円缶 8基 |
主機 | 直立三段膨張式三気筒レシプロ蒸気機関 2基 |
推進 | 2軸 |
速力 | 20.0ノット |
乗員 | 562名 |
兵装 |
25.4cm(40口径)単装砲1門 20.3cm(45口径)連装砲2門 15.2cm(40口径)単装砲14門 7.6cm(40口径)単装砲8門 45.7cm水中魚雷発射管単装4門 |
春日(かすが)は、日本海軍の軍艦[3]。 日本海軍の類別は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)[4]。 春日型装甲巡洋艦の1番艦。同型艦は日進[3]。 「春日」は日露戦争で活躍[3]。旧式化により1921年(大正10年)9月1日附で海防艦に類別変更される[5][6]。 その後は練習艦(運用術練習艦)として運用された[3][7]。太平洋戦争終結直前の1945年(昭和20年)7月18日、横須賀で空襲を受け沈没した。
艦名は春日山に由来する[8]。 日本海軍艦艇の艦名としては2代目(初代は、江戸時代末期から明治初期の春日艦)[8][3][9]。
艦歴
[編集]1902年(明治35年)3月10日、本艦はイタリアアンサルド社において、アルゼンチンが発注したジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦「リヴァダヴィア」として起工[3]。同年10月22日、進水[10][11]。 1903年(明治36年)12月30日、日本海軍が購入[3][12]。 1904年(明治37年)1月1日、日本海軍は購入した軍艦2隻を春日および日進と命名する[13]。同日附で2隻(春日、日進)は一等巡洋艦に類別される[4][14]。 1月7日、「春日」は竣工[3]。2月16日、2隻(春日、日進)は横須賀に到着(春日回航委員長鈴木貫太郎中佐)[3][15][16]。 5月15日未明、旅順港閉塞作戦に従事中の本艦と二等巡洋艦「吉野」は衝突、春日艦首の衝角が食い込み「吉野」は沈没した[17][18]。本事故を受けて筑波以降の日本海軍艦艇は衝角を廃止するに至った[17]。なお同日、日本海軍は戦艦2隻(初瀬、八島)をロシア海軍の機雷により喪失している[18]。 8月10日、黄海海戦参加[3]。 1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて日本海海戦参加[3]。7月21日、第3艦隊に所属し樺太占領作戦に参加。
1914年(大正3年)8月、第一次世界大戦によりアモイ、フィリピン、インド洋、南シナ海で作戦行動に参加[3]。 1917年(大正6年)9月14日、オーストラリア西岸で座礁事故。 1918年(大正7年)1月11日、蘭印(現・インドネシア)バンカ海峡で座礁事故。 1920年(大正9年)5月、祝典参加のためアメリカ合衆国に向かう[3]。 1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、「春日」も一等海防艦となる[19][5]。 1922年(大正11年)9月より、シベリア出兵により沿海州警備に参加[3]。座礁した「三笠」救援任務に従事する[3]。
1925年(大正14年)12月1日、浮き校舎となった特務艦富士の代艦として、運用術練習艦となる(引続き海防艦籍)[3][7]。横須賀鎮守府の警備艦としての役務も担った[7]。 1929年(昭和4年)1月、南洋諸島兵要調査に参加[3]。 1934年(昭和9年)1月、南洋諸島ローソップ島の日食観測活動に参加[3]。4月1日 海軍航海学校所属の練習艦となる(実艦教育用)[3][7]。
1942年(昭和17年)7月1日、日露戦争時より在籍の軍艦3隻(浅間、吾妻、春日)は軍艦籍より除籍[20]。 特務艦に類別変更される[21][22]。 1945年(昭和20年)7月18日、横須賀空襲で大破着底。11月30日 除籍。
年表
[編集]- 明治35年(1902年)3月10日 - 起工。同年10月22日、進水。
- 明治37年(1904年)1月7日 - 竣工。
- 明治36年(1903年)12月30日 日本海軍が購入。春日と命名。
- 明治37年(1904年)1月2月16日 横須賀に到着。4月6日 第1艦隊第1戦隊所属。5月15日、二等巡洋艦吉野との衝突事故発生(吉野沈没)[23]。8月10日 黄海海戦参加。
- 明治38年(1905年)5月27、28日 日本海海戦参加。7月21日 第3艦隊に所属し樺太占領作戦に参加。
- 明治39年(1906年)4月12日 主砲弾1発を皇居に設置(後に早大通りに移設)。
- 大正3年(1914年)8月 第一次世界大戦によりアモイ、フィリピン、インド洋、南シナ海で作戦行動に参加。
- 大正6年(1917年)9月14日 オーストラリア西岸で座礁事故。
- 大正7年(1918年)1月11日 蘭印(現・インドネシア)バンカ海峡で座礁事故。後にシンガポールで修理。
- 大正10年(1921年)9月1日 一等海防艦[24][25]。
- 大正11年(1922年)9月〜 シベリア出兵により沿海州警備に参加。
- 大正14年(1925年)12月1日 運用術練習艦
- 昭和4年(1929年)1月 南洋諸島兵要調査に参加。
- 昭和6年(1931年)6月1日 海防艦
- 昭和9年(1934年)1月 南洋諸島ローソップ島の日食観測活動に参加。4月1日、練習艦。
- 昭和17年(1942年)7月1日 軍艦籍より除籍[20]。特務艦に類別変更[21]。
- 昭和20年(1945年)7月18日 横須賀において米軍艦載機の爆撃(横須賀空襲)を受け大破着底。11月30日 除籍。
- 昭和23年(1948年) 引揚、解体。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 大井上久麿 大佐:1904年2月16日 - 1905年1月7日
- 加藤定吉 大佐:1905年1月7日 - 12月12日
- 仙頭武央 大佐:1905年12月12日 - 1906年4月7日
- 東伏見宮依仁親王 大佐:1906年4月7日 - 12月24日
- 土屋光金 大佐:1906年12月24日 - 1908年4月20日
- 山縣文蔵 大佐:1908年4月20日 - 8月28日
- 荒川規志 大佐:1908年8月28日 - 12月10日
- 竹下勇 大佐:1908年12月10日 - 1909年7月10日
- 山口九十郎 大佐:1909年7月10日 - 12月1日
- 笠間直 大佐:1909年12月1日 - 1910年7月25日
- 岡田啓介 大佐:1910年7月25日 - 1911年1月4日
- 森山慶三郎 大佐:1911年1月4日 - 12月1日
- 真田鶴松 大佐:1911年12月1日 - 12月22日
- 町田駒次郎 大佐:1911年12月22日 - 1912年12月1日
- 水町元 大佐:1912年12月1日 - 1913年4月1日
- 奥田貞吉 大佐:1913年5月24日 - 不詳
- 坂本重国 大佐:不詳 - 1915年12月13日
- 中里重次 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 大谷幸四郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 宇佐川知義 大佐:1917年12月1日 - 1919年2月6日
- 南郷次郎 大佐:1919年2月6日 - 8月5日
- 寺岡平吾 大佐:1919年8月5日 - 1920年11月20日
- 高橋宗三郎 大佐:1920年11月20日 - 1921年12月1日[26]
- 大湊直太郎 大佐:1921年12月1日 - 1922年8月25日
- 中村良三 大佐:1922年8月25日 - 12月1日
- 米内光政 大佐:1922年12月10日 - 1923年3月5日
- 百武源吾 大佐:1923年3月5日 - 12月1日
- 濱野英次郎 大佐:1923年12月1日 - 1924年5月7日
- 向田金一 大佐:1924年5月7日 - 12月1日[27]
- 湯地秀生 大佐:1924年12月1日 - 1925年4月15日
- 大谷四郎 大佐:1925年4月15日 - 1925年12月1日
- 太田質平 大佐:1925年12月1日 - 1929年2月8日
- 小野弥一 大佐:1929年2月8日 - 1931年12月1日
- 大田垣富三郎 大佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日
- 丹下薫二 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
- 松浦永次郎 大佐:1934年11月15日 - 1936年12月1日
- 梶岡定道 大佐:1936年12月1日 - 1938年6月15日
- (兼)中邑元司 大佐:1938年6月15日 - 7月15日
特徴
[編集]春日は同型艦の日進とともに日本で初めて淡緑色のホットベネジアン船底塗料を採用した艦であった。この塗装は艤装したイギリスによって行われたが、同国海軍が地中海艦隊に採用したものだった。地中海は海水温が高く附着生物の多い海域であり、イギリス軍は北海艦隊には普通の赤褐色船底塗料を使用していた。日本の海軍当局はヨーロッパから回航された春日・日進を検査した際に発錆や附着生物が少ないことに驚き、以後連合艦隊の主力艦にホットベネジアン船底塗料を採用するようになった[28]。
ギャラリー
[編集]-
1904ポストカード
-
1904ポストカード
-
1905海戦後の佐世保
-
主砲弾早大通り
脚注
[編集]- ^ #日本の戦艦(上)2001p.21
- ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.36
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ64(原本95頁)『春日(かすが)【二代】 艦種一等巡洋艦 一檣(信號用)日進と姉妹艦なり 艦名考初代「春日」の項(p.7)参照。
艦歴此艦は元亞爾然丁國の軍艦「リヴァダヴヰア」なり、伊太利に於て建造中、明治36年12月30日帝國政府之を購入す、同37年1月1日「春日」と命名、同月7日領収、同年2月16日横須賀着(回航委員長中佐鈴木貫太郎)、同37・8年戰役に從軍(第一戰隊):同37年10月黄海々戰に参加(艦長大佐大井上久麿)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐加藤定吉)、大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年10月第三艦隊に属し中南支方面の航路警戒通商保護に任ず(艦長大佐奥田貞基地、同坂本重國)、同5年7月特別任務の爲め日進と共に浦鹽に回航、特殊貨物搭載、加奈陀「エスカイモルト」に回航(艦長大佐中里重次)、同6年4月第一特務艦隊に属し支那海・印度洋方面の作戰及び通商保護任務に服す(艦長大佐大谷幸四郎、同宇佐川知義)、同9年5月北米合衆國「メーン」州合併百年祭々典参加の爲め「ポートランド」に回航(艦長大佐寺岡平吾)、同12月第二遣外艦隊に属し南洋方面警備(艦長大佐高橋宗三郎)、同10年一等海防艦に編入。同10年9月東亞露領沿岸警備の爲め派遣さる、此の任務中三笠救難作業に從事(艦長同前)、同14年12月1日運用術練習艦と定めらる。
昭和6・7年事變(日支)從軍、同9年1月内外日蝕観測隊57名を南洋「ローソップ」島に輸送するの任務に從事、同年10月1日海軍航海學校設立に依り運用術練習艦の任務を解かれ、同校附属練習艦となる。
―要目― 長357呎/幅61.5呎/吃水25.25呎/排水量7,750噸/機關 汽筩直立三聯成汽機3基 艦政式罐12臺/馬力13,500/速力20/乗組人員525/船材 |兵装 10吋砲 1/8吋砲 2/6吋砲 14/12听砲 20/3听砲 6/マキシム機砲 2/發射管 4/起工 明治35-3-10/進水 同35-10-12/竣工 同37-1-7/建造所伊國アンサルド社』 - ^ a b #達明治37年1月p.1『達第二號 軍艦及水雷艇類別等級別表中巡洋艦一等ノ欄内ニ「春日」「日進」ヲ追加ス 明治三十七年一月一日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』
- ^ a b #達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ149(原本237頁)『春日(かすが)〔再出〕 艦種海防艦 艦名考 艦歴}既に「日清戰役後、日露戰役迄の艦艇」の部に出づ(p.95)。
對島(つしま)〔再出〕 艦種海防艦〔註】寫眞・要目共「日清戰役後、日露戰役迄の艦艇の部参照(p.94) ―要目―(略)』 - ^ a b c d 日本補助艦艇物語240-242頁『運用術練習艦』
- ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ15(原本7頁)『春日(かすが)【初代】 艦種通報艦 三檣「トップスル・スクーナー」 艦名考山名に採る、春日山は大和國添上郡春日郷(今奈良市)の東に聳ち、一邑の主山なり、古より神霊の宅と爲す。北は若草山、南は高圓山、左右に脇侍するものの如し、山下に春日神社あり。艦歴文久3年(1863)英國に於て竣工、元来鹿兒島藩の軍艦、明治3年同藩より献納、明治10年西南戰役從軍、明治27年2月除籍。(要目略)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ49『◎諸艦等級ヲ定ムルノ件 明治四年十一月十五日(兵部省一四六)(妙録)(略)四等之部 日進艦 富士山艦 春日艦』
- ^ #海軍制度沿革(巻11、1940)コマ558『◎艦船要目公表範囲 昭和三年二月十四日(内令四三)『春日|〃(一等海防艦)|104.88|18.90|7.29|7,700|7,080|20.00|566|10|伊國アンサルド社|35-3-10|35-10-22|37-2-16|25c/m 1、20c/m 2、15c/m 14|0|〃(4)|〃(5)|〃(直立三段膨張式)〃(2)|艦本式12|〃(2)』
- ^ #日本軍艦集2600年版コマ65(原本101頁)『―海防艦― 春日(かすが) 基準排水量7,080噸、長さ104.88米、幅18.9米、平均吃水7.29米、速力20節、備砲20糎砲2門、8糎砲4門、8糎高角砲1門、魚雷發射管4門、起工明治35年3月10日、進水明治35年10月22日、竣工明治37年2月16日、建造所英國アンサルド社―海防艦は近代戰の第一戰には立たないから舊艦が多い。』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ24-25『明治三十六年』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199『◎一等巡洋艦春日及日進命名ノ件 明治三十七年一月一日(達一)亜爾然丁共和國政府ヨリ購入ノ一等巡洋艦二隻ヲ春日及日進ト命名セラル』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ52『明治三十七年一月一日(達二)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ25『明治三十七年』
- ^ 明治37年2月17日官報第6185号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○軍艦發箸 軍艦日進及春日ハ昨十六日横須賀ヘ投錨セリ(海軍省)』
- ^ a b #主力艦展望コマ14(原本12頁)『(1)帝國軍艦筑波の竣功 日露戰争の教訓』
- ^ a b #旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
- ^ a b #内令昭和17年7月(1)pp.1-2『内令第千百七十八號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 春日/呉鎮守府在籍 軍艦 淺間/舞鶴鎮守府在籍 軍艦 吾妻/軍艦 占守/軍艦 國後/軍艦 石垣/軍艦 八丈|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ a b #達昭和17年7月(1)p.1『達第百九十二號 軍艦淺間外六隻艦種變更ニ付左ノ通命名ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|海防艦 占守(舊軍艦占守)|海防艦 國後(舊軍艦國後)|海防艦 八丈(舊軍艦八丈)|海防艦 石垣(舊軍艦石垣)|特務艦 淺間(舊軍艦淺間)|特務艦 吾妻(舊軍艦吾妻)|特務艦 春日(舊軍艦春日)』
- ^ #内令昭和17年7月(1)pp.2-3『内令第千百七十九號|海防艦 占守/海防艦 國後/海防艦 石垣/海防艦 八丈 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|特務艦 春日 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|特務艦 淺間 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル|特務艦 吾妻 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|舞鶴鎮守府在籍 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル|横須賀鎮守府在籍 特務艦 春日/呉鎮守府在籍 特務艦 淺間/舞鶴鎮守府在籍 特務艦 吾妻 右第四豫備特務艦ト定ム 昭和十七年七月知日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ #亡失表p.2『二・三等巡洋艦|吉野|四,一五〇|春日ト衝突沈没|(濃霧中)五月十五日|』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル 海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
- ^ #達大正10年9月p.16『戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
- ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
- ^ 大島重義 1962, p. 26-27.
参考文献
[編集]- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、海軍歴史保存会、1995年。
- 福井静夫『福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
- 『官報』
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第2輯』博文会、1905年10月。
- 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第3輯』博文会、1905年11月。
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- 大島重義 (1962-09-01). “連合艦隊と船底塗料の裏話”. ペイント (東亜ペイント株式会社) (22): 26-30. NDLJP:1800563/15.