志貴皇子
志貴皇子 (施基親王) | |
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時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代初期 |
生誕 | 668年? |
薨去 | 霊亀2年8月9日(716年8月30日) |
別名 | 芝基皇子、施基皇子、志紀皇子、施基親王 |
尊号 |
春日宮御宇天皇 田原天皇 |
位階 | 二品 |
父母 | 父:天智天皇、母:越道君伊羅都売 |
兄弟 | 弘文天皇、建皇子、川島皇子、志貴皇子、大田皇女、持統天皇、御名部皇女、元明天皇、山辺皇女、明日香皇女、新田部皇女、大江皇女、泉皇女、水主皇女、他 |
妻 | 託基皇女、紀橡姫 |
子 | 春日王、湯原王、榎井王、光仁天皇、壱志王、海上女王、難波内親王、衣縫内親王、坂合部内親王 |
志貴皇子(しきのみこ、668年? - 霊亀2年8月9日(716年8月30日))は、日本の飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇第7皇子[1]。位階は二品。
皇位とは無縁で文化人としての人生を送った。しかしその薨去から54年後に、息子の白壁王(第49代光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。
今日の皇室は、志貴皇子の男系子孫にあたる。
経歴
[編集]天武天皇8年(679年)天武天皇が吉野に行幸した際、鸕野讚良皇后(後の持統天皇)も列席する中、天智・天武両天皇の諸皇子(草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河島皇子・忍壁皇子)とともに、皇位継承の争いを起こすことのないよう結束を誓う(吉野の盟約)[2]。天武天皇14年(685年)冠位四十八階の制定により吉野の盟約に参加した諸皇子が叙位を受けるが、志貴皇子のみ叙位を受けた記録がない[3]。朱鳥元年(686年)封戸200戸を与えられる。
持統朝では、持統天皇3年(689年)撰善言司(良い説話などを撰び集める役)に任ぜられた程度で、叙位や要職への任官記録がなく、天皇の弟でありながら不遇な状況にあったか[4]。
文武朝に入ると、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて四品に叙せられる。大宝3年(703年)持統天皇の葬儀では造御竃長官を務め、慶雲4年(707年)6月の文武天皇の崩御にあたっては殯宮に供奉している[5]。
同年7月に元明天皇が即位し、再び天皇の兄弟となる。元明朝では、和銅元年(708年)三品、和銅8年(715年)二品と昇進を果たしている。
元正朝の霊亀2年(716年)8月9日薨去[6]。『続日本紀』霊亀2年8月甲寅(11日)条には、「二品志貴親王薨。遣従四位下六人部王。正五位下県犬養宿禰筑紫。監護喪事。」とあるが、これは葬儀の日であると考えられる。また、『万葉集』に笠金村が「志貴皇子が薨ぜし時に作りし歌一首」(230番)が残る[7]。
壬申の乱を経て、皇統が傍系・天武天皇系に移ったことから、天智天皇系皇族であった自身は皇位継承とは無縁で、政治よりも和歌などの文化の道に生きた人生だった。
薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)、第6男子の白壁王が皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、天皇の実父として春日宮御宇天皇の追尊を受けた。御陵所の田原西陵(奈良市矢田原町)[6][8]にちなんで田原天皇とも称される。
人物
[編集]清澄で自然鑑賞に優れた歌人として『万葉集』に6首の和歌作品を残している。いずれも繊細な美しさに満ち溢れる名歌である。
- 石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
- 神なびの 石瀬の杜(もり)の ほととぎす 毛無(ならし)の岡に いつか来鳴かむ
- 大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも
- むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも
- 采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
- 葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ
『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集にも5首が採録されている[9]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 朱鳥元年(686年) 8月15日:加封200戸
- 持統天皇3年(689年) 6月2日:撰善言司
- 時期不詳:四品
- 大宝3年(703年) 9月3日:賜近江国鉄穴。10月9日:造御竃長官(持統天皇葬儀)
- 大宝4年(704年) 正月11日:益封100戸
- 和銅元年(708年) 正月11日:三品
- 和銅7年(714年) 正月3日:益封200戸
- 和銅8年(715年) 正月10日:二品
- 霊亀2年(716年)8月9日:薨去[6]
- 宝亀元年(770年) 11月6日:春日宮御宇天皇を追号
系譜
[編集]光仁天皇の即位により、春日宮御宇天皇の皇孫として二世王待遇となった皇族[19]。
- 桑原王(? - 774年) - 父王不詳
- 鴨王(? - 780年) - 父王不詳
- 神王(737 - 806年) - 榎井王王子、後に右大臣
- 壱志濃王(733年 - 805年) - 湯原王第2王子、後に大納言
- 浄橋女王(? - 790年) - 父王不詳
- 飽波女王(? - 787年) - 父王不詳
- 尾張女王(? - 804年?) - 湯原王王女、光仁天皇妃
孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡を、志貴皇子の落胤とする説が『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』『僧綱補任』『公卿補任』などに見られる[20]。
系図
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34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『続日本紀』霊亀2年8月11日条による。『類聚三代格』では第3皇子とする。
- ^ 『日本書紀』天武天皇8年5月6日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇14年正月2日条
- ^ 『世界大百科事典 第2版』
- ^ 『続日本紀』慶雲4年6月16日条
- ^ a b c 『類聚三代格』17巻, 宝亀3年5月8日勅
- ^ 西本昌弘『早良親王』吉川弘文館人物叢書, 2019. pp. 2-3
- ^ “春日宮天皇陵(田原西陵)”. 奈良市観光協会. 2023年7月4日閲覧。
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ a b 『日本書紀』天智天皇7年2月23日条
- ^ a b 『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『日本後紀』延暦24年11月12日条
- ^ 『続日本紀』宝亀4年10月14日条
- ^ 『続日本紀』光仁天皇即位前紀
- ^ 『日本後紀』延暦25年4月24日条
- ^ 『本朝皇胤紹運録』には「海上王」とあるが、『続日本紀』養老7年正月10日条などに海上女王の記載がある。
- ^ 『続日本紀』宝亀3年7月9日条
- ^ 『続日本紀』宝亀9年5月27日条
- ^ 『続日本紀』宝亀元年11月6日条
- ^ 太田亮は『姓氏家系大辞典』でこれを否定している。
参考文献
[編集]- 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 『世界大百科事典 第2版』平凡社、2005年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年