大田皇女
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大田皇女 | |
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時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 不詳 |
薨去 | 天智天皇6年(667年)2月頃 |
墓所 | 越塚御門古墳? |
父母 | 父:天智天皇、母:蘇我倉山田石川麻呂娘遠智娘 |
兄弟 | 弘文天皇、建皇子、川島皇子、志貴皇子、大田皇女、持統天皇、御名部皇女、元明天皇、山辺皇女、明日香皇女、新田部皇女、大江皇女、泉皇女、水主皇女、他 |
夫 | 大海人皇子(後の天武天皇) |
子 | 大来皇女、大津皇子 |
大田皇女(おおたのひめみこ)は、天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。同母妹に鸕野讚良皇女(持統天皇)。同母弟に建皇子がいる。
生涯
[編集]同母妹・鸕野讚良皇女とともに大海人皇子(天武天皇)の妃となり、大伯皇女・大津皇子を生むが、夫の即位前に薨去。薨去当時の大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。祖母・斉明天皇、叔母・間人皇女(天智の妹。孝徳天皇皇后)とともに葬られた。
同母妹・鸕野讚良皇女がのちに皇后となったことからみても、長生きしていれば天武の皇后となったかもしれない妃であった。大津皇子にとってこの母を早くに亡くしたことは、皇后所生の草壁皇子との後の対立を含め、人生に大きな影響を与えたと思われる。
2010年(平成22年)、奈良県明日香村の牽牛子塚古墳のそばから新たに石室が出土し、越塚御門古墳と命名された。『日本書紀』に記述されている斉明天皇の墓との位置関係から、一部では大田皇女の墓であることが決定的であると報じられた[1][2][3]。
血縁
[編集]脚注
[編集]- ^ 牽牛子塚古墳は斉明天皇陵か、実証の小古墳発見 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(ウェブアーカイブ)(2010年(平成22年)12月9日17時01分 読売新聞) 2020年(令和2年)9月18日閲覧
- ^ 「大田皇女の墓か石室を新たに発見 牽牛子塚古墳」:イザ! [リンク切れ] - (2010年(平成22年)12月9日17時01分 産経新聞) 2020年(令和2年)9月18日閲覧
- ^ クローズアップ2010:「斉明陵」前・孫娘の墓 広がる食い違い - 毎日jp [リンク切れ] - (2010年(平成22年)12月10日 毎日新聞)2020年(令和2年)9月18日閲覧