日野資実
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 応保2年(1162年) |
死没 | 貞応2年2月20日(1223年3月23日) |
改名 | 資実→知寂[1](法名) |
別名 | 藤原 資実 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流日野家 |
父母 | 父:藤原兼光、母:源家時の娘 |
兄弟 | 資実、藤原長親、藤原宣実、藤原有兼、広橋頼資、藤原基長、良兼、覚証、後鳥羽院按察使典侍、宣陽門院左衛門督、姉小路公宣室、葉室宗行室、葉室長宗室、源信定室、一条高能室 |
妻 |
八条院女房播磨局、平棟子(平棟範の娘) 宣陽門院大進 |
子 |
家宣、家長、家光、光国、光恵、光厳、兼性、忠承 猶子:光遍 |
日野 資実(ひの すけざね、旧字体:日野 資󠄁實)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家真夏流日野家、権中納言・藤原兼光の長男。官位は正二位・権中納言。日野家14代当主。
経歴
[編集]早くから大学に入り、承安2年(1172年)に学問料を賜り、承安4年(1174年)に秀才に補されている。
承安5年(1175年)越後大掾に初任。左衛門少尉や六位蔵人を歴任し、治承3年(1179年)に従五位下に叙爵。寿永元年(1182年)に皇后宮少進に任ぜられ、昇殿を許される。その後皇后宮大進に転じ、元暦元年(1184年)従五位上、文治4年(1188年)正五位下と進み、五位蔵人、宮内大輔、左衛門権佐、防鴨川使、右少弁を歴任した後、職を一度辞す。
建久2年(1191年)宣陽門院判官代として復帰。同年山本荘(場所などは不明)を賜る。建久5年(1194年)には左中弁となり、建久6年12月(1196年1月)従四位下・右中弁に叙任され、右宮城使、近江権介などを兼ねる。建久9年(1198年)には正四位下・右大弁に叙任され、造東寺長官、遠江権守、蔵人頭などを歴任。
建仁元年(1201年)参議に任ぜられ公卿に列す。左大弁に転じ、建仁2年(1202年)には従三位・勘解由長官に叙任された。同年12月8日の行幸では上卿を務める[2]。
建仁3年(1203年)正三位・丹波権守に叙任され、元久元年(1204年)権中納言に進む。元久3年(1206年)には従二位に叙され、承元3年(1206年)に春宮権大夫を兼任。翌年正二位に叙された。建暦元年(1211年)大宰権帥に遷る。承久2年(1220年)に出家した。
貞応2年(1223年)2月20日に薨去。享年62。
歌人としても活躍し、建久6年(1195年)の「民部卿家歌合」、正治2年(1200年)の「石清水若宮歌合」などに詠出。『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集に9首が入集している。また、秀才に補されるなど学問にも明るく、土御門・順徳両天皇の侍読や、文章博士・東宮学士なども務めた。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 承安2年(1172年)3月14日:学問料を賜う。
- 承安4年(1174年)正月:秀才に補す。
- 承安5年(1175年)正月23日:越後大掾に任ず。
- 安元2年(1176年)10月8日:献策(光経朝臣問)。
- 治承元年(1177年)11月15日:左衛門少尉に任ず。
- 治承2年(1178年)正月:高倉天皇の六位蔵人に補す。11月24日:蒙使宣旨。
- 治承3年(1179年)7月16日:従五位下に叙爵。
- 寿永元年(1182年)8月14日:皇后宮少進に任ず。10月:昇殿を聴す。
- 寿永2年(1183年)正月22日:皇后宮大進に転ず。
- 寿永3年/元暦元年(1184年)3月23日:昇殿を聴される。7月2日:従五位上に叙す(宮入内賞)。
- 文治3年(1187年)6月28日:大進を停む(依院號也)。
- 文治4年(1188年)正月7日:正五位下に叙す(殷富門院御給)。10月14日:後鳥羽天皇の五位蔵人に補す。12月30日(1189年1月18日):宮内大輔に任ず。
- 文治6年(1190年)正月24日:左衛門権佐に任ず。8月13日:防鴨川使を兼ぬ。10月27日:右少弁を兼ぬ。12月28日(1191年1月25日)蔵人・弁・佐を辞す。
- 建久2年(1191年)5月26日:宣陽門院判官代。
- 建久3年(1192年)4月29日:防鴨川使を止む。
- 建久5年(1194年)9月17日:左少弁に転ず。
- 建久6年12月9日(1196年1月10日):右中弁に転じ、従四位下に叙す。
- 建久7年(1196年)2月1日:修理右宮城使を兼ぬ。4月:服解。6月26日:復任。
- 建久9年(1198年)正月11日:新帝昇殿、院別当に補す。2月26日:従四位上に叙す(御即位宣陽門院御給)。11月9日:近江権介を兼ぬ。11月21日:正四位下に叙す(大嘗会国司賞)。12月9日(1199年1月7日):右大弁に転ず。
- 建久10年(1199年)正月21日:造東寺長官。3月23日:遠江権守。12月9日:蔵人頭に補す。
- 正治2年(1200年)4月15日:東宮学士。
- 建仁元年(1201年)8月19日:参議に任じ、左大弁に転ず。遠江権守如元。
- 建仁2年(1202年)10月29日:従三位に叙す。(24日?):勘解由長官を兼ぬ。
- 建仁3年(1203年)正月13日:丹波権守。12月20日(1204年1月23日):正三位に叙す(東大寺供養長官并行事賞)。
- 元久元年(1204年)3月6日:権中納言に任ず。
- 元久3年(1206年)4月3日:従二位に叙す。
- 承元3年(1209年)4月14日:春宮権大夫を兼ぬ。
- 承元4年(1210年)11月25日:権大夫を止む。12月26日(1211年1月12日):正二位に叙す(坊官賞、□以上十五)。
- 建暦元年(1211年)10月12日:辞退。大宰権帥に遷る。
- 建保5年(1217年)正月:得替。
- 建保6年(1218年)本座。
- 承久2年(1220年)6月3日:出家。
系譜
[編集]- 父:藤原兼光
- 母:源家時の娘
- 妻:八条院女房播磨局
- 妻:平棟子(平棟範の娘、?-1221)
- 妻:宣陽門院大進
- 男子:威信(?-?)
- 生母不明の子女
- 男子:光厳
- 男子:兼性
- 男子:忠承
- 猶子
- 男子:光遍(?-?)