持明院保家
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 仁安2年(1167年) |
死没 | 承元4年3月1日(1210年3月27日) |
別名 | 藤原保家 |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 持明院家 |
父母 | 父:持明院基家、母:平頼盛の娘 |
兄弟 |
基宗、保家、陳子、藤原実宗室、平資盛正室、園基氏、行雲、俊玄、源兼忠室、惟明親王妾 養兄弟:藤原基行 |
妻 | 高階泰経の娘 |
子 | 基保、家時、俊保、家任、親保、尊基、行愉、玄基、松殿忠房室 |
持明院 保家(じみょういん やすいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権中納言・持明院基家の次男。官位は従二位・権中納言。
経歴
[編集]嘉応3年(1171年)従五位下に叙爵。承安4年(1174年)従五位上・加賀守に叙任され、安元元年12月(1176年2月)侍従に任ぜられる。
治承5年(1181年)正五位下・紀伊守に叙任。元暦2年(1185年)には淡路守に任官し、文治5年(1189年)右近衛少将に遷る。文治6年(1190年)従四位下に叙せられると、建久6年(1195年)従四位上、建久9年(1198年)正四位下・右近衛権中将と順調に昇進し、建仁2年(1202年)従三位に叙せられて公卿に列した。この間の建久10年(1199年)三左衛門事件により出仕を停められている。元久元年(1204年)正三位に進み、元久3年(1206年)に参議に任ぜられた。
建永2年(1207年)に讃岐権守・左衛門督を兼帯。承元2年(1208年)に検非違使別当に補され、権中納言に任ぜられるが、承元3年(1209年)辞退して従二位に至る。同年按察使に任ぜられるが、翌1210年に出家、同年3月に腫物[1]により薨去した。享年44。
官歴
[編集]- 嘉応3年(1171年)正月6日:従五位下に叙爵(上西門院久寿元年御給)。
- 承安4年(1174年)
- 正月21日:加賀守に任ず(父基家秩満替)。
- 8月2日:従五位上に叙す(上西門院御給。朝覲行幸賞)。
- 安元元年12月29日(1176年2月11日):侍従に任ず。去加賀守。
- 治承3年(1179年)11月16日:重任。
- 治承5年(1181年)/養和元年
- 7月2日:紀伊守に任ず。
- 12月4日(1182年1月10日):正五位下に叙す(造日前國懸社賞)。
- 元暦2年(1185年)6月29日:淡路守を兼ぬ。
- 文治5年(1189年)7月10日:右近衛少將に任ず(父基家辞権中納言任之)。
- 文治6年(1190年)正月5日:従四位下に叙す(臨時)。少將如元。
- 建久6年(1195年)正月5日:従四位上に叙す(上西門院未給)。
- 建久9年(1198年)
- 正月11日:新帝昇殿を聴す。
- 2月26日:正四位下に叙す(殷富門院御即位御給)。
- 12月9日(1199年1月7日):右近衛権中将に転ず。
- 建仁2年(1202年)10月29日:従三位に叙す。
- 建仁3年(1203年)10月24日:侍従に任ず。
- 元久元年(1204年)10月26日:正三位に叙す。
- 元久3年(1206年)3月26日:参議に任ず。元侍従。
- 建永2年(1207年)
- 正月13日:讃岐権守を兼ぬ。
- 2月16日:左衛門督を兼ぬ。
- 承元2年(1208年)
- 4月7日:検非違使別当に補す。
- 7月9日:権中納言に任ず。
- 7月23日:督・別當を辞す。
- 承元3年(1209年)
- 4月14日:権中納言を辞し、従二位に叙す。
- 10月30日:按察使に任ず。
- 承元4年(1210年)
- 2月17日:腫物に依り出家。
- 3月1日:薨去。享年44。