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成宗電気軌道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
成田鉄道 (2代)から転送)
成田鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
千葉県印旛郡成田町成田839の1[1]
設立 1908年(明治41年)11月12日[1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、バス事業、不動産 他[1]
代表者 社長 河野通[1]
資本金 1,499,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在[1]
テンプレートを表示
第1トンネル跡(2012年)
第1トンネル跡(2012年)
概要
現況 廃止
起終点 起点:不動尊、本社前
終点:宗吾、成田駅前
駅数 9停留所
運営
開業 1910年12月11日 (1910-12-11)
廃止 1944年12月11日 (1944-12-11)
所有者 成宗電気軌道→成田電気軌道→成田鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 5.3 km (3.3 mi)(不動尊-宗吾間)
0.1 km (0.062 mi)(本社前-成田駅前)
軌間 1,372 mm (4 ft 6 in)
電化 直流600 V 架空電車線方式
路線図
uexKBHFa
0.0 不動尊停留所
uexTUNNEL2
第1トンネル
uexBHF
幼稚園下停留所
uexTUNNEL2
第2トンネル
STR+4 uexSTR
成田線佐原方面
ABZg+r uexSTR
成田線我孫子方面
STR uexBHF KBHFa
京成電車前停留所
STR uexSTR STR
京成成田駅
STR uexSTR
京成本線
STR uexSTR STR
成田駅
BHF uexKBHFaq uexTBHFxeq STR
-
0.1
成田駅前停留所
STR uexSTR STR
1.0
0.0
本社前停留所
STR uexBHF STR
論田停留所
STRl STRq uxmKRZu KRZu
uexBHF STR
3.1 新田停留所
uexBRÜCKE2 STR
第3トンネル
uexBHF STR
大袋停留所
uexKBHFe STR
5.3 宗吾停留所
テンプレートを表示

成宗電気軌道(せいそうでんききどう)は、かつて千葉県成田市において軌道事業電気供給事業を兼営していた企業である。後に成田電気軌道と改称し、さらに千葉県から鉄道路線を譲り受け成田鉄道(2代)と改称した。同社は鉄道事業廃止後成田バスを経て千葉交通となった。

本項では、主に同社が運営した軌道線について述べる。

概要

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千葉県唯一の路面電車であった。成田鉄道(初代。前述の成田鉄道とは異なり、現在の成田線の前身)の成田駅から、古くより参拝客の多い成田山新勝寺宗吾霊堂への路線を敷設する計画は古くからあった。最初は宗吾馬車鉄道という馬車鉄道を敷設する計画が立てられたが、諸種の問題で流れた。

次に、大阪の資本家才賀藤吉の援助を得ることによって計画が立てられ、これがようやく実現する見通しになった。しかし成田山の門前町が参拝客が通らなくなって衰退することを恐れて反対したため、そこを東に避けてトンネルを掘るなどし、ようやく1910年(明治43年)に一部区間が開通、翌年に宗吾 - 成田間の全線が開業した。

しかし開業前に電気軌道の作業場から出た火の手が宗吾霊堂に引火して、堂宇と周辺民家の多くが焼けるなどしたこともあり、電気鉄道に懐疑的な人が多く反対運動も多かったことから、利用者はなかなか伸びなかった。さらに才賀藤吉が事業に失敗して資産を失い、援助が得られなくなったりするなど苦境も襲いかかった。そして東京の投機業者に買収され、おりしも第一次世界大戦の価格が高騰していたことから、電車を廃止してレールを売却することを目論んだ。これに対しては地元から猛反対の運動が起こり、千葉県知事が乗り出すなどして、ようやく複線の内単線を撤去することと、保有車両数の15両から6両への削減を行うことで決着した。

その後京成電気軌道(現京成電鉄)の傘下に入るが、乗合自動車(バス)の登場で客を奪われるようになり、さらには通行の邪魔ということで今度は地元から廃止論が出るようになった。しかし戦時体制によってガソリン供給が統制されると、バスの運行もできなくなったことからこのときは存続した。だが結局、1944年(昭和19年)には参詣路線は戦時柄ふさわしくないことと、京成本線とほぼ並行していることから、不要不急線として廃線となった。京成本線には成田の駅の位置を巡って新勝寺門前により近い所への設置を画策して成田電気軌道を買収(1925年)し、その線路を接続する案もあったが、門前の商店街の猛反発に折れ、1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。

路線データ

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成宗電気軌道第2トンネル跡。2007年

廃線当時

  • 路線距離:総5.4km
    • 不動尊 - 宗吾間5.3km
    • 本社前 - 成田駅前間0.1km
  • 軌間:1372mm
  • 停留所数:9
  • 電化区間:全線(直流600V)
  • 複線区間:なし(当初は全線複線)

運行概要

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1925年3月当時

  • 運行本数:6:30-20:30に5-10分間隔
  • 所要時間:成田山門前 - 宗吾間21分

1940年1月21日改正当時

  • 運行本数:7時台 - 18時台に不動尊 - 成田駅前間7-15分間隔、そのほか15-30分間隔
  • 所要時間:不動尊 - 宗吾間17分

歴史

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  • 1908年(明治41年)11月 成宗電気軌道株式会社設立[2]
  • 1910年(明治43年)12月11日 成田駅前(後、本社前) - 成田山門前(後、不動尊)間開通
  • 1911年(明治44年)1月20日 成田駅前(後、本社前) - 宗吾間開通
  • 1916年(大正5年)5月26日 成田電気軌道に改称
  • 1924年(大正13年)2月28日 創業以来の電灯事業を帝国電灯へ譲渡[3][4]
  • 1924年(大正13年) 京成電気軌道傘下に入る
  • 1927年(昭和2年)4月1日 千葉県から多古線八街線の鉄道路線を譲り受ける[5]
  • 1927年(昭和2年)5月13日 成田鉄道に改称[6]
  • 1944年(昭和19年)12月11日 不要不急線として廃止[7]

停留所

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1938年当時

  • 不動尊(当初、成田山門前) - 幼稚園下 - 京成電車前 - 本社前(ほんしゃまえ) - 論田(ろんでん) - 新田(しんでん) - 大袋(おおぶくろ) - 宗吾(そうご)
  • 本社前 - 省線駅前(後、成田駅前)

接続路線

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輸送・収支実績

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年度 輸送人員(人) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円)
1910 96,332 11,419 12,869 ▲1,450
1911 455,521 30,690 36,530 ▲5,840
1912 467,744 32,681 43,626 ▲10,945
1913 503,363 35,521 36,024 ▲503
1914 487,264 35,658 28,318 7,340
1915 414,453 29,775 26,399 3,376
1916 436,613 34,550 29,165 5,385
1917 600,558 48,932 34,250 14,682
1918 764,876 59,562 55,565 3,997
1919 766,733 83,338 45,917 37,421
1920 956,851 111,866 74,162 37,704
1921 994,749 116,557 77,881 38,676
1922 1,086,971 147,735 88,666 59,069
1923 755,634 135,359 68,344 67,015
1924 816,133 162,580 135,758 26,822
1925 1,192,366 160,694 104,411 56,283
1926 1,184,896 142,049 69,229 72,820
1927 1,386,035 149,349 71,593 77,756
1928 1,352,477 139,124 56,866 82,258
1929 1,378,245 140,266 53,933 86,333
1930 1,715,880 182,914 49,869 133,045
1931 1,054,599 111,940 36,744 75,196
1932 910,098 80,015 37,594 42,421
1933 974,250 94,962 38,992 55,970
1934 902,258 81,594 41,805 39,789
1935 868,726 77,824 35,403 42,421
1936 855,261 99,760 35,160 64,600
1937 876,578 105,969 34,727 71,242
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

車両

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デハ1形1-15号
成宗電気軌道開業時に天野工場で15両新製した。定員40名、主電動機ドイツアルゲマイネ製の25馬力を2台、台車はイギリスのマウンテンギブソン21EM、乗降台にドアのないオープンデッキ方式で走行中にはチェーンが張られた。1918年に函館水電(現・函館市企業局交通部)へ5両、阪神急行電鉄へ4両[注釈 1]売却された。
成田鉄道1号の形式図[8]
廃線時に残っていた6両と後述の2代目7-9の計9両は横浜市交通局へ売却されたが、使用されることなく生麦車庫で解体された。これは戦時中は車両新製に制約があったことから、中古車の車籍を取得しその車両の改造名目で新車を製造するためであった。
1918年に函館水電に売却されたうちの1両が、2023年現在も30形「箱館ハイカラ號」として現役で運行されている。函館では当初は旅客車として使用されていたが、1937年にササラ式除雪車に改造された後、1992年の函館市制70周年記念事業で復元され、1993年から「箱館ハイカラ號」として運行されている。「箱館ハイカラ號」の主要機器類はササラ電車時代の部品を整備の上で使用している。台車はササラ電車時代から使用しているブリル製台車を整備の上で使用しているため、成田電気軌道時代のマウンテン・ギブソン製台車とは異なっている(交換時期は不明)。
7-9(2代目)
1922年東京市電より購入した1905年汽車製造製ヨソ6(997・998・999)で、定員40人。1940年デハ11-13に改番。

その他

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  • 成田空港と市内のスポットを巡って運行されていた成田市観光循環バス(廃止)の車体は成宗電気軌道の車両のデザインを踏襲しており、レトロバスの愛称で親しまれていた。
  • JR成田駅東口にあった柳屋レストラン裏に、成宗電気軌道で使われていたレールの一部が残っていた。
  • 京成成田駅前から成田山方面へ続く廃線跡は「電車道」と呼ばれる道路に変わり、不動尊前 - 本社前間の第1トンネル、第2トンネルが現存している。このほか新田 - 大袋間の築堤下にあった人道用の第3トンネルは、公津の杜造成時に一部が取り壊されたが、北側坑口の上部のみ残存している[9]
  • 1965年1月23日付け朝日新聞によれば成田観光開発が京成成田駅から成田山新勝寺までロッキード式モノレールを敷設する計画が存在した[10]。この路線は長期未開業線として『民鉄要覧』に1968年まで記載されていた[11]

脚注

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注釈

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  1. ^ 3両は伊丹線用の47形、1両は電動貨車106となった(電動貨車の台車は兵庫県宝塚市宝塚ファミリーランドの「のりもの館」に保存されていた)。

出典

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  1. ^ a b c d e f 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治42年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 白土貞夫「成田の電灯電力史」『成田市史研究』No.15、35頁
  4. ^ 『電気事業要覧. 第17回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 「地方鉄道譲渡」『官報』1927年4月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 5月21日届出『鉄道統計資料. 昭和2年 第3編 監督』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「軌道運輸営業廃止」『官報』1945年5月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 『最新電動客車明細表及型式図集』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 旧成宗電気軌道第3トンネル 千葉県の近代産業遺跡
  10. ^ 横濱ヲブラリ ドリーム交通モノレールを作る
  11. ^ 廃止時期不明の未開業線 鉄道のデータ集

参考文献

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外部リンク

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