徳田與吉郎
徳田與吉郎 とくだ よきちろう | |
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生年月日 | 1906年11月15日 |
出生地 | 石川県石川郡比楽島村(現石川県白山市) |
没年月日 | 1995年11月11日(88歳没) |
出身校 | 順天中学校(現順天中学校・高等学校)4年修了 |
前職 | 金沢燃料社長 |
所属政党 |
(日本民主党→) (自由民主党→) |
選挙区 | 旧石川1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1955年2月27日 - 1958年4月25日 |
第21-23代金沢市長 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1963年2月10日 - 1972年7月8日 |
徳田 與吉郎(与吉郎、とくだ よきちろう、1906年(明治39年)11月15日[1][2] - 1995年(平成7年)11月11日[1])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県金沢市長。
経歴
[編集]石川県[3]石川郡比楽島村[1](石川村、松任町、松任市を経て現白山市水島町[1])で生まれた。1926年(大正15年)5月、東京市の順天中学校(現順天中学校・高等学校)4年修了後[2][注 1]、家業の米穀薪炭販売業に従事した[2]。
1942年(昭和17年)3月、石川県食糧営団会計主任に就任し、同会計課長、同金沢支所長、同経理部長を歴任[2]。以後、食糧配給公団石川県支局経理部長、石川県食糧事業協同組合常任監事、石川県米穀取締役、糧栄不動産監査役、北糧商会社長、金沢燃料社長などを務めた[1][2]。
政界では、1942年6月、金沢市会議員に選出され、同市議会議員、同副議長、同議長、全国市議会議長会常任実行委員、同行政調査特別委員長、地方制度調査会委員などを務めた[1][2]。1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙で石川県第1区に日本民主党公認で出馬して当選し[2][4]、衆議院議員に1期在任した[1][3]。この間、日本民主党政調会運輸副部長、自由民主党政調会労働副部長などを務めた。その後、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙に立候補したが次点で落選した[4]。
1963年(昭和38年)2月10日、21代金沢市長に就任[1][2]。この間、国際親善都市連盟副会長、中央米生産調整推進協議会委員、全国市長会副会長、同相談役なども務めた[2]。市政では、「明るい住みよい文化産業都市の建設」を目ざした長期15か年計画の策定、金沢港の着工、道路やダムの整備、窓口センターの設置、「市民と語る会」の実施など、市民生活の向上に尽力した[2]。市長に3期在任し、1972年(昭和47年)7月8日に退任した[1][2]。
伝記
[編集]- 谷内成雄『道を拓く:徳田与吉郎評伝』北国出版社、1976年。
著作
[編集]- 『中国見たまま:ソ連見聞記』徳田与吉郎、1965年。
- 『市長室の窓から』徳田与吉郎、1966年。
- 上田正二との共著『対談・石川県戦後政治史秘話』北陸中日新聞報道部、1983年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『現代物故者事典 1994~1996』386頁では卒業。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1984年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『現代物故者事典 1994~1996』日外アソシエーツ株式会社、1997年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
公職 | ||
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先代 土井登 |
金沢市長 第21-23代:1963年 - 1972年 |
次代 岡良一 |