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徳川斉昭

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徳川齊昭から転送)
 
徳川 斉昭
時代 江戸時代後期(幕末
生誕 寛政12年3月11日1800年4月4日
死没 万延元年8月15日1860年9月29日
改名 虎三郎、敬三郎(幼名)、松平紀教、徳川斉昭
別名 子信、景山、潜閣
諡号 烈公
神号 押健男国之御楯命
奈里安紀良之命
墓所 瑞龍山
官位 従三位左近衛権中将左衛門督参議権中納言、贈従二位権大納言、贈従一位、贈正一位
幕府 江戸幕府:海防参与、軍制改革参与
主君 徳川家斉家慶家定
常陸国水戸藩藩主
氏族 徳川氏水戸徳川家
父母 父:徳川治紀、母:外山補子
養父:徳川斉脩、養母:峯寿院
兄弟 斉脩松平頼恕斉昭松平頼筠、申之丞、鄰姫(鷹司政通室)ほか
御簾中登美宮吉子女王
側室:万里小路睦子 ほか
慶篤池田慶徳慶喜松平直侯池田茂政松平武聰喜連川縄氏松平昭訓松平忠和土屋挙直徳川昭武松平喜徳松平頼之ほか
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徳川斉昭と七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像(茨城県水戸市、千波公園)

徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の実父である。

略歴

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本項ではすべて「斉昭」で統一する。

寛政12年(1800年3月11日徳川治紀の三男として生まれる。生母は権中納言外山光実の養女(町資補の娘)・補子。初めは父・治紀より偏諱を受けて松平紀教まつだいら としのり/のりたか、藩主就任後は将軍・徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗った。

藩政改革に成功した幕末期の名君の一人である。しかし将軍継嗣争い大老井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。系図上の先祖である徳川光圀と共に、茨城県常磐神社に祭神として祀られている[1]

生涯

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家督相続

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藩主治紀の子たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学んだ。治紀には成長した男子が4人あった。長兄・斉脩は次代藩主であり、次兄・松平頼恕文化12年(1815年)に高松藩松平家、弟・松平頼筠は文化4年(1807年)に宍戸藩松平家[注釈 1]に早くに養嗣子の縁組が決まっていた。しかし三男の斉昭は30歳まで部屋住みで側室も持たせており、斉脩の控えとして残されたと思われる。なお、父の生前に「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」と言われていたという[2][要文献特定詳細情報]

文政12年(1829年)、斉脩が継嗣を決めないまま重病になった。大名昇進を画策する附家老中山信守らを中心とした門閥派より、御簾中峰姫の異母弟・恒之丞(斉昭の義継弟)を養嗣子に迎える動きを知ると、斉昭を推す学者や下士層40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなった。斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が家督を相続した。天保2年(1832年)12月3日、皇族有栖川宮家から登美宮吉子女王[注釈 2]を御簾中に迎えた。

藩政改革

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天保12年(1841年)8月、藩校として弘道館を設立し[3][8]、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして、戸田忠太夫藤田東湖安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い藩政改革を実施した。

斉昭の改革は、水野忠邦天保の改革に示唆を与えたといわれる。天保8年(1837年7月、斉昭は、次の各項を掲げた。

  1. 「経界の義」(全領検地)
  2. 「土着の義」(藩士の土着)
  3. 学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)
  4. 「総交代の義」(江戸定府制の廃止)

また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉(ひえぐら)を設置するなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していた。蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言している。その影響力は幕府のみならず全国に及んだ。これにより水戸、紀州、尾張の附家老5家の大名昇格運動は停滞する。

宗教の面では、寺院釣鐘仏像を没収して海防のための大砲の材料とし(毀鐘鋳砲)、廃寺や道端の地蔵の撤去を行った。また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行した[注釈 3]。こうした政策に対して、仏教を冒涜 (ぼうとく) しているとの批判が上がったが、斉昭は、金属製の仏具を供出させ、それを海防のための大砲鋳造の原料に充てた件については「かつて幕府が公益上の必要(貨幣流通量の不足)から、方広寺大仏(京の大仏)を鋳潰して銭貨にした」ことを先例に挙げ、自身の政策も国防上必要で、やむを得ない政策であると弁明を行っている[9][注釈 4]

天保13年(1842年)、「日本三名園」のひとつとなる偕楽園を造園した[10][11]

弘化元年(1844年)には鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件など罪を問われる[要出典]と、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居の身となる。水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって2年後の弘化3年(1846年)に謹慎を解かれた後、嘉永2年(1849年)に藩政関与が許された。

幕政参与

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嘉永6年(1853年6月マシュー・ペリー浦賀来航に際して、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭はペリー暗殺も含む強硬な攘夷論を主張した[12]。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上し[注釈 5]、また江戸の石川島で建造した洋式軍艦「旭日丸」を幕府に差し出した。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉が完成、鉄製大砲を鋳造した[13]

安政2年(1855年)に軍制改革参与の座につくものの、同年の安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らブレーンを失うなど不運があった。翌々年の安政4年(1857年)に阿部正弘が死没、後継として堀田正睦が名実共に老中首座になるとその開国論に斉昭はますます反対を強め、開国を推進する彦根藩井伊直弼と対立する。

さらに将軍徳川家定の将軍継嗣問題も井伊らとの争点となる。紀州藩主徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊派に対抗し、一橋派は斉昭の実子である一橋家当主・徳川慶喜を擁して構えた。斉昭は敗れ、直弼は安政5年(1858年)に大老の座につくと日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を将軍とした。

一連の将軍継嗣及び条約調印の問題をめぐり、同年6月24日に斉昭は慶篤や甥である尾張藩主徳川慶恕を伴い、江戸城無断登城の上に井伊大老を詰問した。逆に翌7月、井伊直弼から水戸藩江戸屋敷で謹慎を命じられ[14]、幕府中枢から排除された。

ところが孝明天皇による戊午の密勅は水戸藩に下され、激怒した直弼は安政6年(1859年)に斉昭の永蟄居を命じる。水戸に移されると、事実上は政治生命を絶たれる形となった(安政の大獄を参照)。

最期

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万延元年(1860年8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝した。享年61(満60歳没)。この日は中秋の名月であるため満月を観覧する宴が開かれており、夜半近くに(かわや)に立った後に倒れたと伝えられる。壮年40代頃から狭心症の症状がみられ、それが持病となっていたことから、死因は心筋梗塞と推定されている[15]

3月に起こった桜田門外の変から間もない時期であったために、彦根藩士に暗殺されたのではないかとの風説があったが、当時の水戸藩の記録には暗殺を伺わせるものはなく、彦根藩側の隠密の探った情報の記録が『幕末風聞探索書』として公表されているが、そこにも暗殺を匂わせるものは存在しない。むしろ、水戸側に残っていない側医本間玄調の診断の内容もあり、水戸側の記録と共通する内容である[15]

人物・逸話

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自筆の揮毫(きごう)
自画像(1838年)

人物伝

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諡号の「烈公」にも示されるように、まさに幕末をその荒々しい気性で生き抜いてきた人物であった[疑問点]

幼少期から水戸学の影響を受けたため、開国には猛反対していたが、マシュー・ペリーからもたらされたコルト銃を自藩で量産させるなど、西洋の物品に対しては大いに興味を示したといわれる[16][要ページ番号]。また、越前藩松平春嶽あてに、本当は開国しかないが私は攘夷派の頭目と攘夷派の人々に思われているため、開国と言えないので貴君らが開国を計らって欲しいとの手紙を書いている。

幕末期に人材の少なかった徳川家では唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物であり、その死は幕府にとって痛手となった。斉昭の死後、水戸藩では内紛が起こり、見出した人材はことごとく自滅することとなる[16]

家族

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礼儀作法に厳しい性格であるため、幼い頃、寝相が悪かった七男の慶喜が寝る際に、枕の両脇に剃刀(かみそり)を立てて寝かせていた[20]

寵愛していた側室の地位を引き上げたところ、その側室は大喜びして金を無心したので斉昭は理由を尋ねた。すると「今までより地位が上がりましたので、衣装に費用が多くかかりますから」と答えた。斉昭は「それには及ばぬ。これまでの衣装で我が前に務めよ」と申し渡したが、側室は「それでは体面が保てず、奉公が務まりません」と答えた。すると斉昭は激怒し「このようなときにおねだりするとは心得違いも甚だしい。奉公が務まらないというならば出仕は無用だ」と述べて出て行った。それ以降、斉昭はその側室の目通りを許さなかったという[21]

農人形の図。稲束(左)と農夫(右)をかたどった陶磁像や木像が家にあり、裏返しの(中)にご飯を供えた。

農業政策

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「民は国の本也」「愛民専一」[22]を一面では真剣に心掛けながら、他面「農民の学問手習いするは、(中略)農耕の妨になる事なり」とて教育を不要とし、ただ「私もなく欲もなく、農をはげみ、育子の義も行届、常に麁服(あらたえ)[注釈 6]して、収納も滞な」ければ良しとしていた[23][注釈 7]

藩政の改革に際して農本主義を唱えると、農民五穀への感謝から銅の人形をつくらせ、食事を始める前に農民の人形の笠に一飯を供えることを習慣としていた[24][22]。その遺徳をしのんで明治末期から素焼きや木彫りの「農人形」が作られはじめ、水戸市の郷土玩具になった[24][28][22]

財政

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水戸家は毎年幕府から1万両の援助金を受けていた。だが斉昭は「祖公以来、35万石で暮らすことが本意であり、倹約するのはこの石高で暮らすためである。以後は奢侈を固く禁止し節約を心がけて拝領した石高で暮らすべきである。その事始めとして、1万両は幕府に返上し、持高に応じた忠勤に励むよう。諸役人はこの趣旨に沿って生計をたてよ」と述べた[29][疑問点][要文献特定詳細情報]

水戸家を相続して間もない頃、家臣らは先代藩主の斉脩が食べていたものと同じ食事を用意した。斉昭はそれを見て「余はこれまで日陰者であったが、兄が亡くなってはからずも水戸家を継いだ。御三家の格式は非常に重いので表向きのことは変更できないだろうが、内向きのことである食事などには金などかけることはない」と述べ、翌日から部屋住みの頃の食事に戻させた[29]

武芸

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武術に堪能で、自ら神発流砲術、常山流薙刀術を創始し、弘道館で指導させた[30]

安神車

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安神車あんじんしゃという戦車をつくらせた[31]。現在、水戸東照宮に一部が残っている[31]

文芸

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  • 斉昭の詠んだ歌を刻んだ歌碑の前段詞から、水戸藩中屋敷址に弥生という地名が生まれたため、弥生時代の間接的な名付け親である[33]

食生活

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大の肉好きとして知られており、彦根藩から近江牛を贈られた時には、返礼の手紙を書いている[34]

自らの庭にて乳牛を飼っており、健康のため、牛乳ギヤマンの器に入れて飲んでいた。斉昭の著書である『菜食録』に、牛乳は精力剤であるとの説明がある[35]

官職および位階等の履歴

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※日付=明治5年12月2日までは旧暦

家系

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  • 御簾中:登美宮吉子女王(貞芳院・文明夫人) - 織仁親王の末娘
    • 長男:慶篤 (1832年 - 1868年)
    • 次男:二郎麿(1833年 - 1834年)
    • 五女:以以姫(1835年 - 1835年)
    • 七男:慶喜(1837年 - 1913年)
  • 側室:荻原古与 - 萩原恊盛の娘
    • 長女:賢姫(佐加子)(1822年 - 1839年) - 伊達宗城婚約者
    • 次女:色許姫(1825年 - 1826年)
    • 三女:祝姫(欽子、本岐姫)(1827年 - 1853年) - 山野辺義正
  • 側室:山野辺直 - 山野辺義質の娘(徳川宗翰曾孫)
    • 四女:比呂姫(1834年 - 1835年)
    • 四男:四郎麿(1835年 - 1836年)
    • 七女:庸姫(1837年 - 1843年)
    • 八男:松平直侯(1839年 - 1862年)
    • 八女:一葉姫(1840年 - 1843年)
    • 十男:松平武聰(1842年 - 1882年)
    • 十三男:余三麿(1844年 - 1844年)
  • 側室:松波貞子(春子) - 松波光寧の娘
    • 三男:三郎麿(1835年 - 1837年)
    • 六女:松姫(明子)(1836年 - 1903年) - 南部利剛
    • 五男:池田慶徳(1837年 - 1877年)
    • 九男:池田茂政(1839年 - 1899年)
    • 九女:八代姫(孝子)(1841年 - 1869年) - 伊達慶邦
    • 十二男:余二麿(1844年 - 1844年)
  • 側室:柳原登聞 - 柳原隆光の娘、のち家臣松平頼譲に嫁す
    • 六男:六郎麿(1837年 - 1838年)
  • 側室:立原利子 - 立原杏所の娘
    • 十女:静姫(1843年 - 1844年)
    • 十一男:喜連川縄氏(1844年 - 1874年)
  • 側室:万里小路睦子 - 万里小路建房の娘
  • 側室:高丘徳子 - 高丘永季の娘
    • 十五男:余五麿(1849年 - 1849年)
    • 十六男:松平忠和(1851年 - 1917年)
    • 十二女:愛姫(愛子)(1852年 - 1914年) - 井上正順
    • 二十一男:廿一麿(1856年 - 1856年)
  • 側室:高橋道子 - 高橋重賢の娘
    • 十三女:久姫(1853年 - 1853年)
  • 側室:高橋悦子 - 高橋高明の娘

関連作品

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映画

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ドラマ

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※本作での斉昭は、井伊直弼(演:成田三樹夫)が十五代目服部半蔵(演:千葉真一)に殺害された報復として、公儀お庭番・甲賀組の頭領である楯岡道雪(演:亀石征一郎)に殺害される形で命を落とす、と言う設定になっている。

小説

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漫画

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歴史教養番組

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脚注

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注釈

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  1. ^ 両松平家とも水戸徳川家御連枝
  2. ^ 吉子女王は織仁親王の末娘であり、将軍世子家慶御簾中喬子女王の妹であった。
  3. ^ このような仏教抑圧および神道重視の政策は、明治初期の神仏分離廃仏毀釈の先駆けとなった。
  4. ^ 方広寺大仏を寛永通宝鋳造の原料にしたとする逸話は江戸時代によく知られていたが真偽は定かでない。金属供出に応じた寺院には、水戸藩から代替となる木製の仏具が贈られたという。また上記の政策は、藩政を牛耳る家老たちと、藩政改革を進めようとする中下級の藩士たちの間で激しい派閥抗争が繰り広げられた中、藩を一つにまとめる必要もあって行われたとされる[要出典]
  5. ^ 幕府に献上したうち、大砲1門は水戸の常磐神社に現存[要出典]
  6. ^ 粗末な衣服の意。
  7. ^ すなわち、徳川斉昭の愛民は、士を養うものとしての民の愛撫にあったのである。それはあくまでも専制支配者の仁慈であった[要出典]

出典

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  1. ^ 光圀公と斉昭公”. komonsan.jp. 常磐神社. 2023年1月10日閲覧。
  2. ^ 『武公遺事』
  3. ^ 弘道館について”. 茨城県 (2020年1月16日). 2023年8月17日閲覧。
  4. ^ 高須 1941, pp. 337頁- (コマ番号0177.jp2), 徳川齊昭「弘道館記」
  5. ^ 高須 1941, pp. 339-342頁 (コマ番号 0178.jp2), 「弘道館學則」
  6. ^ 高須 1941, pp. 342-344頁 (コマ番号0180.jp2), 豊田天功「弘道館記述義序」
  7. ^ 高須 1941, pp. 345頁- (コマ番号0181.jp2), 小山宏「弘道館記述義跋」
  8. ^ [4][5][6][7]
  9. ^ 圭室文雄「水戸藩の撞鐘徴収政策」『明治大学教養論集』第86号、1974年、[要ページ番号] 
  10. ^ 偕楽園について”. 茨城県 (2022年1月25日). 2023年8月17日閲覧。
  11. ^ 県政の歩み”. 茨城県 (2021年11月15日). 2023年8月17日閲覧。
  12. ^ 「酒をたっぷり飲ませて頭をはね」水戸藩主・徳川斉昭がペリー抹殺計画か…書簡16点発見”. 読売新聞オンライン (2022年12月21日). 2023年2月5日閲覧。
  13. ^ ワークス 編 1997, p. 43
  14. ^ 福和伸夫 (2020年8月24日). “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう”. Yahoo!ニュース. 2020年12月3日閲覧。
  15. ^ a b 水戸市史編さん委員会 編「斉昭の生涯」『水戸市史 中巻(四)』水戸市、1982年、1176-1178頁。 
  16. ^ a b 鈴木一夫『水戸黄門:江戸のマルチ人間・徳川光圀』中央公論新社〈中公文庫〉、2000年。全国書誌番号:20120739 河出書房新社『水戸黄門の世界』(1995年刊)の改題、年譜あり。
  17. ^ 渋沢 1968, p. 416
  18. ^ 田中 1980, p. 368
  19. ^ 『人物日本の歴史19』 1974[要ページ番号]。別題『摂関時代』。
  20. ^ 渋沢栄一[17]、 田中彰[18]、坂本賞三[19]による。
  21. ^ 大郷信斎; 国書刊行会 編 (1916年). “「続道聴塗説」”. 『鼠璞十種』(そうはく じっしゅ)第二. 国書刊行会(全国書誌番号:51000990)、国立国会図書館近代デジタルライブラリー. pp. 153-218. 2015年3月8日閲覧。
  22. ^ a b c 農人形について”. 水戸市教育委員会 (2022年8月1日). 2023年8月17日閲覧。
  23. ^ 天保元年「郡奉行宛手書」および同五年「庄屋吉郎兵衛宛手書」より[要文献特定詳細情報]
  24. ^ a b 『日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』『日本大百科全書 (ニッポニカ)』精選版。. “農人形とは”. コトバンク. 2023年1月10日閲覧。
  25. ^ 国民訓育連盟「五 農人形の歌」『水戸学行城東の教育 : 水戸市城東国民学校』第一出版協会〈国民訓育連盟推奨訓育優良学校叢書 ; 4〉1941年(昭和16年)、39頁 (コマ番号0028.jp2)。インターネット公開
  26. ^ 杢子朱明「農人形」『みと : 現時点でとらえた水戸の過去と将来』水戸ぷろむなあど社、1970年、限定版、234頁。doi:10.11501/9640236、国立国会図書館内/図書館・個人送信対応。
  27. ^ 武藤正 編「県庁、市役所界隈 §28 農人形銅像除幕式」『写真集明治大正昭和水戸』国書刊行会〈ふるさとの想い出290〉、1984年11月、16頁。他に「水戸城趾と弘道館公園 §鐘堂」8頁。「収録写真一覧」127頁。doi:10.11501/9643272、公開範囲 国立国会図書館内限定、図書館・個人送信対象外、遠隔複写可。
  28. ^ 水戸市城東国民学校「農人形の歌」[25]、「農人形」[26]、「農人形銅像除幕式」[27]の記録がある。
  29. ^ a b 甲子夜話松浦清、続編
  30. ^ 綿谷 & 山田 1978[要ページ番号]
  31. ^ a b 安神車”. 水戸市教育委員会 (2022年8月1日). 2023年8月17日閲覧。
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  33. ^ 弥生式土器”. www.oogiya.co.jp. 御菓子処 扇屋. 2023年1月10日閲覧。
  34. ^ ジュラ・高橋洋「肉食のルーツ 彦根城はなぜ残ったのか」『朝日新聞』2014年7月17日。オリジナルの2015年3月8日時点におけるアーカイブ。2014年7月27日閲覧。
  35. ^ 細野明義. “我国における牛乳と乳製品普及の系譜” (PDF). 日本乳業技術協会. 2015年6月13日閲覧。
  36. ^ 「烈公・徳川斉昭 幕末動乱への導火線」”. 英雄たちの選択. NHK. 2023年8月17日閲覧。
  37. ^ 英雄たちの選択 「烈公・徳川斉昭 幕末動乱への導火線」”. NHKアーカイブス|NHKクロニクル. NHK. 2023年8月17日閲覧。

参考文献

[編集]

主な執筆者、編者の50音順。

  • 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』 4巻、平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、416頁。 
  • 高須 芳次郎、豊田天功、小山宏『水戸学徒列伝 : 水戸学入門』誠文堂新光社、1941年。doi:10.11501/1038557https://doi.org/10.11501/10385572023年1月9日閲覧 
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    • 「弘道館學則」339-342頁 (コマ番号 0178.jp2)
    • 豊田天功「弘道館記述義序」 342-344頁 (コマ番号0180.jp2)
    • 小山宏「弘道館記述義跋」345頁- (コマ番号0181.jp2)
  • 田中彰『明治維新の敗者と勝者』日本放送出版協会〈NHKブックス368〉、1980年。 
  • 但野正弘『水戸烈公と藤田東湖『弘道館記』の碑文』水戸 : 水戸史学会、錦正社(販売)、2002年8月。  ISBN 978-4-7646-0261-8
    • 弘道館記述義
  • 遠山茂樹『明治維新』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2000年11月。 ISBN 978-4006000325
    • 「序論」(明治維新史の学問的確立の条件;資本主義論争の意義)
    • 「第1章 天保期の意義」(問題の所在;幕府の改革;諸蕃の蕃政改革)
    • 「第2章 尊王攘夷運動の展開」(外圧の性格;尊王攘夷論の思想的性格;政争の進展)
    • 岩波書店『遠山茂樹著作集』第1巻の1991年改版本に収録。初版は1951年。
    • 「文献解説」「年表」の底本は岩波書店〈同時代ライブラリー〉版(1995年)。改版(1972年)を反映。
  • 奈良本辰也 ほか 著、日本アート・センター 編『人物日本の歴史』 19 (維新の群像)、小学館、1974年。doi:10.11501/12210456 国立国会図書館デジタルコレクション、館内限定、図書館・個人送信対象外、遠隔複写可。
  • 水戸市史編さん委員会 編「第21章 §第7節 斉昭の生涯」『水戸市史』 中巻(四)、水戸市、1982年、1164- (コマ番号0610.jp2-)頁。doi:10.11501/3021313全国書誌番号:83008919 国会図書館デジタルコレクション、館内限定公開、図書館・個人送信対象、遠隔複写可。
  • 宮田正彦『水戸学の復興―幽谷・東湖そして烈公―』錦正社、2014年7月。  ISBN 978-4-7646-0118-5
  • 安見隆雄『水戸斉昭の『偕楽園記』碑文』水戸史学会、錦正社(販売)〈水戸の碑文シリーズ 5〉、2006年7月。 ISBN 978-4-7646-0271-7
    • 第1章『偕楽園記』の原文と書き下し文
    • 第2章『偕楽園記』の意訳と解説
    • 第3章 偕楽園の造営と『偕楽園記』の撰文
  • 綿谷雪、山田忠史 編『武芸流派大事典』(増補大改訂)東京コピイ出版部、高山本店 (発売)、1978年。 NCID BN01670478 
  • ワークス 編『茨城県』 8巻、ゼンリン〈ふるさとの文化遺産 郷土資料事典〉、1997年3月20日、43頁。 NCID BN16121586全国書誌番号:98037750 

関連文献

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  • 『徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集』 校倉書房 1993年

関連項目

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人物

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外部リンク

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徳川慶喜の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 徳川宗翰
 
 
 
 
 
 
 
8. 徳川治保
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 美衛
 
 
 
 
 
 
 
4. 徳川治紀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 一条道香
 
 
 
 
 
 
 
9. 一条溢子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 池田静子
 
 
 
 
 
 
 
2. 徳川斉昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 烏丸光胤
 
 
 
 
 
 
 
10. 町資補
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 真如
 
 
 
 
 
 
 
5. 外山補子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 江戸幕府15代将軍
徳川慶喜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
12. 職仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 右衛門佐局
 
 
 
 
 
 
 
6. 織仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 後藤左一郎
 
 
 
 
 
 
 
13. 菖蒲小路
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 登美宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14. 安藤定弘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 清瀧