本間棗軒
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本間 棗軒(ほんま そうけん、文化元年(1804年) - 明治5年2月8日(1872年3月16日))は、江戸時代の医師。初名は資章、後に救。字は和卿、通称玄調[1]。
生涯
[編集]常陸国小川村(現在の茨城県小美玉市)に生まれた。父本間玄有と祖父本間玄琢は稽医館の創始者で、養父道偉も医者であり、名医一族の中で育った。17歳のとき、原南陽に入門し、その後、杉田立卿、箕作阮甫、高階枳園、華岡青洲、シーボルトなどに師事した。江戸に帰還し開業[1]。水戸藩主徳川斉昭の侍医となり、天保14年(1843年)には弘道館医学館の教授となった[1]。講義・治療・著述などに活躍し、水戸藩医政の第一線を担った。多くの人命を救ったことから徳川斉昭より救という名を賜った。
華岡青洲の門下としてはもっとも優れた外科医であったとされ、医術についての著作を残しているが、その著作において青洲から教わった麻酔薬の秘術を無断で公開したとして、破門された。しかし、彼が残した著作は、青洲が門外不出としていた麻酔薬「通仙散」の成分と製法を知る上で現在も貴重な資料となっている。
著作
[編集]- 『瘍科秘録』 - 1837年
出典
[編集]参考文献
[編集]- 茨城新聞社編 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社、1981年、954頁。