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川名 (藤沢市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川名緑地から転送)
日本 > 神奈川県 > 藤沢市 > 川名 (藤沢市)
川名
町丁大字
川名交差点。県道32号と県道312号が交差する
地図北緯35度19分58秒 東経139度30分01秒 / 北緯35.332647度 東経139.500267度 / 35.332647; 139.500267
座標位置:川名交差点付近
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川
市町村 藤沢市
地区 村岡地区
人口情報2023年(令和5年)9月1日現在[1]
 人口 6,936 人
 世帯数 3,096 世帯
面積[2]
  0.954488613 km²
人口密度 7266.72 人/km²
郵便番号 251-0015[3]
市外局番 0466(藤沢MA[4]
ナンバープレート 湘南
ウィキポータル 日本の町・字
神奈川県の旗 ウィキポータル 神奈川県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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川名(かわな)は、神奈川県藤沢市東端に位置する地名。旧鎌倉郡津村郷川名村[5]にあたる。現行行政町名としては住居表示実施済みの川名一丁目及び川名二丁目と未実施の川名(大字)がある。

地理

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北は柏尾川南岸を境に弥勒寺宮前と接し[注 1]、西は境川の西岸を境に鵠沼と接する。南は新林公園(後述)付近を境に片瀬山と接し、東、東南は川名緑地(後述)・東レ基礎研究所・神奈川県立深沢高等学校を結ぶ線を境に鎌倉市手広と接する。

柏尾川と境川の合流点に位置するため、川岸は古くから水害に悩まされてきた一方、そのほかの地域は第三紀層で構成された丘陵だったため旱魃に悩まされた。

かつては住民のほとんどが農家で、周辺は田畑しかなかったが、高度経済成長期以降急速に開発が進み、丘陵の多くは切り崩され神奈川県道32号藤沢鎌倉線沿線を中心に工場・高層集合住宅・商業施設などが立ち並ぶようになった。

一方開発を免れた南側は標高60メートル程度の丘陵が残り、自然が残っているエリアとなっている。 →川名緑地、新林公園

地価

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住宅地の地価は、2023年令和5年)1月1日公示地価によれば、川名字通町592番2外の地点で15万2000円/m2となっている[6]

世帯数と人口

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2023年(令和5年)9月1日現在(藤沢市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
川名一丁目 2,035世帯 4,642人
川名二丁目 797世帯 1,676人
川名三丁目 264世帯 618人
3,096世帯 6,936人

人口の変遷

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国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[7]
3,646
2000年(平成12年)[8]
3,711
2005年(平成17年)[9]
5,990
2010年(平成22年)[10]
5,928
2015年(平成27年)[11]
5,910
2020年(令和2年)[12]
6,653

世帯数の変遷

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国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[7]
1,462
2000年(平成12年)[8]
1,516
2005年(平成17年)[9]
2,393
2010年(平成22年)[10]
2,469
2015年(平成27年)[11]
2,532
2020年(令和2年)[12]
2,906

学区

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市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2015年6月時点)[13]

大字・丁目 番地 小学校 中学校
川名 全域 藤沢市立新林小学校 藤沢市立村岡中学校
川名一丁目 全域
川名二丁目 全域

事業所

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2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[14]

丁目 事業所数 従業員数
川名一丁目 47事業所 281人
川名二丁目 58事業所 2,345人
川名三丁目 23事業所 379人
128事業所 3,005人

事業者数の変遷

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経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[15]
116
2021年(令和3年)[14]
128

従業員数の変遷

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経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[15]
2,991
2021年(令和3年)[14]
3,005

交通

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バス

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道路

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旧道

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歴史

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川名地区南部の清水遺跡からは旧石器時代後期の石器(表面採集=礫器・剥片)が出土している。

川名の台地部分には縄文時代から弥生時代古墳時代にかけての遺跡横穴墓を中心に複数存在し、古くからこのあたり一帯に集落が存在した事が証明されている。

平安時代になると川名は御霊神社など村岡平氏ゆかりの史跡が残る事や、村岡平氏の本拠(村岡郷)に近かった事などから、村岡平氏の支配下にあった事が推測できるが、確証となるような史料はない。

大庭御厨成立後から鎌倉時代初期ごろまでは大庭氏の影響下にあったと推測されている。

戦国時代、川名は後北条氏の支配下となり、永禄年中には大谷彦次郎が知行していた事が役帳に残されている[5](神光寺付近の小字に「殿屋敷」というものがあるが、このあたりに大谷氏の屋敷が存在したと推測されている。『新編相模国風土記稿』が作られたころにはこの大谷氏の屋敷跡が遺跡として残っていたようである[16])。後北条時代の川名は境川沿いに諸役を免除した市場がおかれ、また御霊神社・神光寺付近にも門前町が存在し、栄えていたという。

1591年天正18年)小田原征伐により後北条氏が没落すると、川名は徳川家康の支配下となり、以降1694年元禄7年)に旗本の井上左太夫(井上貞高)の知行となるまでは天領だった。近世期の川名は谷戸田[注 2]や深田[注 3]などが多く、もともと米の収穫量が少なかったが、柏尾川の氾濫による水害、灌漑設備の未発達による旱害によりたびたび困窮した。また藤沢宿定助郷にも指定されていた事もこの困窮に輪をかける事になる。

幕末になると異国船警護役を受けた川越藩彦根藩が知行した。このため川名の村民は異国船警護の人足としても徴発されるようになったため、さらに困窮し、藤沢宿の助郷免除の訴えを起こすにまでいたった。

1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、川名村は村岡郷五か村(小塚村高谷村宮前村弥勒寺村柄沢村)と合併し、川名は村岡村の大字となった。1941年(昭和16年)、村岡村が藤沢市に合併されて川名は藤沢市の大字となる。1966年(昭和41年)10月1日に川名の一部に住居表示が実施[17]され一部が川名一丁目・二丁目として分立。以降、川名一丁目・二丁目と川名が共存した状態となり現在に至っている。

史跡

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御霊神社

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御霊神社は川名村の鎮守[18]、創建は天慶4年(941年)で宮前にある御霊神社を分社したものと伝わる。宮前のものと区別するために「川名御霊神社」と呼ぶ場合もある。正しい読みは「ごりょうじんじゃ」だが、地元では「ごれいじんじゃ」と読む事の方が多い。

御霊信仰にもとづき早良親王を祭神とし、また郷土の英雄の鎌倉景正疱瘡神なども祀られている。毎年9月に行われる例大祭では人形山車と共にお囃子(川名屋台ばやし)が町内を練り歩く。なお川名屋台ばやしは1976年4月15日に藤沢市の無形民俗文化財に指定された。

毎年1月にさいと焼き(左義長)が行われる。

神光寺

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神光寺古義真言宗の寺で江戸時代青蓮寺末寺だった[19]1851年嘉永4年)に付近の寺、大勝寺を合併し、今にいたる。読みはじんこうじ山号稲荷山影向院(いなりさんようごういん)。なお、廃寺になった大勝寺にあった川名地蔵堂には相模国準四国八十八ヶ所第74番札所の弘法大師坐像が安置されていたが、現在は神光寺境内の参道左手に大師堂が建てられ、移されている。

横穴墓群・やぐら

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神光寺脇などの丘陵部に複数存在する。横穴墓は古墳時代~奈良時代にかけての墓で、やぐら鎌倉時代のものである。川名付近には他にも縄文時代から平安時代ぐらいまでの遺跡が多数存在している。「神光寺横穴古墳(横穴墓)群」は、1977年(昭和52年)4月13日、藤沢市の史跡に指定された[20]

観光地

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川名緑地

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川名緑地は川名南部に位置する1.5haほどの緑地で藤沢市が環境を保全しているエリアである。宅地化・工業化が進む周辺地域から隔絶し、田畑が立ち並び豊かな自然の残るエリアとなっている。特に最奥部の川名清水谷戸にはキジカワセミフクロウなど多種類の野生生物がすみ、中にはヤマトセンブリなどの希少種も確認される。

川名交差点が終点となる神奈川県道312号田谷藤沢線は、当初の計画では川名緑地を越え国道134号に接続する予定だったが、豊かな自然を破壊すると地域住民の反対運動が起こったため、川名・国道134号間の建設計画は一時白紙となったが、トンネル化案が示され復活の方向にあり、問題が再燃している。

その他

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日本郵便

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただし柏尾川北岸、東海道本線神奈川県道312号田谷藤沢線に囲まれた地域は川名に属す
  2. ^ 谷陰に隠れ日があまりあたらず、冷たい湧き水が沸くため収穫量が落ちる田
  3. ^ 泥沼となっており、田植えができずを直播するため収穫量が落ちる田

出典

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  1. ^ a b 町丁字別人口と世帯数(国勢調査を基準とした推計値)2023年9月” (PDF). 藤沢市 (2023年9月6日). 2023年9月21日閲覧。 “(ファイル元のページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月25日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b 川名の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月25日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  5. ^ a b 新編相模国風土記稿 1932, p. 185.
  6. ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査”. 国土交通省. 2023年8月9日閲覧。
  7. ^ a b 平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
  8. ^ a b 平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
  9. ^ a b 平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
  10. ^ a b 平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
  11. ^ a b 平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
  12. ^ a b 令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
  13. ^ 藤沢市立小・中学校通学区域一覧”. 藤沢市 (2015年6月30日). 2018年2月26日閲覧。
  14. ^ a b c 経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
  15. ^ a b 経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
  16. ^ 新編相模国風土記稿 1932a, p. 186.
  17. ^ 藤沢市|住居表示実施区域 2014年3月9日閲覧。
  18. ^ 新編相模国風土記稿 1932b, p. 186.
  19. ^ 新編相模国風土記稿 1932c, p. 186.
  20. ^ 神光寺横穴墓群”. 藤沢市生涯学習部郷土歴史課. 2022年2月10日閲覧。
  21. ^ 郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。

参考文献

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  • 「深澤庄 川名村」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之105村里部鎌倉郡巻之37、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/99 
  • 「深澤庄 御霊社」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之105村里部鎌倉郡巻之37、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/100 
  • 「深澤庄 神光寺」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之105村里部鎌倉郡巻之37、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/100 
  • 「深澤庄 大谷筑前守某宅蹟」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之105村里部鎌倉郡巻之37、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/100 
  • 日本地名研究所 編『藤沢の地名』(第3版)藤沢市自治文化部市民活動課、1997年3月31日。 
  • 三浦勝男 編『鎌倉の地名由来辞典』東京堂出版、2005年9月。ISBN 978-4-490-10674-9