寒河江為広
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時代 | 室町時代、戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 文明18年9月8日(1486年10月5日) |
改名 | 法名:常泉院殿心識本公 |
別名 | 為慶[1] |
官位 | 従五位下、右衛門佐 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 大江氏親広流寒河江氏 |
父母 | 父:寒河江元高、母:不詳 |
兄弟 | 高重、為広、孝満 |
妻 | 不詳 |
子 | 知広、幸道 |
寒河江 為広(さがえ ためひろ、旧字体:為廣)は室町時代から戦国時代の武将。寒河江氏12代。寒河江城主5代。
生涯
[編集]寒河江元高の次男として生まれるが、長兄寒河江高重の死により寒河江氏を継いだ。高重の没年が不明の為相続時期は不明。応永20年(1413年)大沼大行院の本社を再建したという[2]。
伊達氏は応仁元年(1467年)から文明4年(1472年)までの間に国分氏を3度攻めて和睦するが[3]、この争いに際して寒河江氏庶流の白岩満教は国分氏を支援した[4]。
文明11年(1479年)伊達氏の侵攻を受ける。この時一族内で結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓書を納めている。この時は寒さにより干戈を交えず撤退した伊達氏だが、翌文明12年(1480年)春、再び攻め寄せる。庶流の左沢氏・溝延氏と共に伊達軍を寒河江荘奥深くに引き込み、伊達側大将桑折播磨守宗義を打ち取って撃退した(菖蒲沼の戦い)。同年桑折播磨守の子息が最上満氏に仲介を依頼し、菩提を弔う時宗松蔵寺が慈恩寺近くに開かれた[5]。
文明18年(1486年)9月8日に没し跡を寒河江知広が継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.102「安中坊系譜」
- ^ 大沼大行院系図『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.196。父および祖父の生前(元時:1366年~1448年、元高:?~1457年)なので疑問も残る。
- ^ 『宮城県史』復刻版第1巻389頁
- ^ 応仁2年(1468年)熱塩郷にある年貢5貫文の滝之在家および2貫500文の在家1宇を与えた。(国分文書)『角川日本地名大辞典(旧地名編)』
- ^ 松蔵寺『幹縁疏』
- ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.40「最上院本大江系図」
関連資料
[編集]- 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫『寒河江大江氏』、1988
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001