大江政広
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 建治3年6月15日(1277年7月17日) |
改名 | 法名:行阿宥慶 |
別名 | 少輔助太郎 |
墓所 |
吉川阿弥陀堂 山形県西村山郡西川町 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 宗尊親王、惟康親王 |
氏族 | 大江氏 |
父母 |
父:大江広時 母:北条実泰の娘 |
兄弟 | 政広、親政、光親、重祐、顕親、女、女 |
妻 | 毛利経光の娘 |
子 | 元顕、小沢広顕、古川親元、西目公広 |
大江 政広(おおえ の まさひろ、旧字体:政廣)は鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の曽孫。母は北条実泰の娘。妻は毛利経光の娘。寒河江氏4代。
生涯
[編集]父大江広時が弘長2年(1262年)に亡くなると家督を継ぐが、寒河江荘には目代を送り自身は鎌倉にあったものとみられる。文永3年(1266年)大沼大行院(山形県朝日町)に大鐘一口を奉納する[1]。弘安の役に際しては同院で調伏を行っている[1]。文永9年(1272年)二月騒動で母方兄弟の小山氏が縁戚関係を結んでいた北条時輔が討たれる。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮造営費用として15貫を納めた[2]
政広は建治3年(1277年)に亡くなり、跡を嫡男元顕が継いだ。嫡男元顕は弘安8年(1285年)霜月騒動の結果寒河江荘に下向したとみられているが、兄弟らは小沢、古川、西目を名乗り関東地方で御家人(もしくは御内人)として居住していたとみられる[3]。小沢広顕の子らは後の正慶2年(1333年)鎌倉幕府の滅亡と運命を共にしているが、広顕の孫は寒河江荘に下り後に大沼大行院を相続する[1][4]。
系譜
[編集]- 父:大江広時 - 少輔孫三郎、木工助、従五位下。法名願阿宥真。
- 母:北条実泰の娘
- 妻:毛利経光の娘
- 元顕 - 従五位下、右京亮、上総介、正五位下。大江氏として初めて寒河江荘に下向。法名順阿永慶。
- 生母不明
- 小沢広顕 - 2男。孫二郎修理亮。妻小栗宗重[5]の娘。法名円阿。
- 古川親元 - 3男。孫三郎。
- 西目公広 - 4男。兵部少輔。
- 娘
周辺系図
[編集]北条政村 | 北条時村 | ||||||||||||||||||||||||||||||
娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||
北条実泰 | 北条実時 | 北条顕時 | |||||||||||||||||||||||||||||
小山長村室 | 北条時輔室 | ||||||||||||||||||||||||||||||
娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||
大江政広 | |||||||||||||||||||||||||||||||
大江親広 | 大江広時 | ||||||||||||||||||||||||||||||
大江元顕 | |||||||||||||||||||||||||||||||
毛利季光 | 毛利経光 | 娘 | |||||||||||||||||||||||||||||
毛利時親 | |||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]関連資料
[編集]- 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫 『寒河江大江氏』、1988
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001