大江広時
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 弘長2年7月18日(1262年8月4日) |
改名 | 法名:願阿宥真 |
別名 | 少輔孫三郎 |
墓所 |
吉川阿弥陀堂 山形県西村山郡西川町 |
官位 | 木工助、従五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 藤原頼嗣 |
氏族 | 大江氏 |
父母 |
父:大江親広 母:平時家の娘(竹御所官女) |
兄弟 | 上田佐房、高元、広時、佐広、藤原顕氏室 |
妻 | 北条実泰の娘 |
子 | 大江政広、親政、光親、重祐、顕親、女、女 |
大江 広時(おおえ の ひろとき、旧字体:廣時)は鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の孫。大江親広の子。母は平時家の娘。妻は北条実泰の娘。
生涯
[編集]父大江親広が承久の乱で敗れたものの、その時点で祖父大江広元が健在だったこと、兄大江佐房が乱で戦功を挙げたことから幕職に就く。『吾妻鏡』での初出は嘉禎4年(1238年)で、少輔木工助として将軍に随行して上京した[1]。延応元年(1239年)7月、佐房と共に久遠寿量院持仏堂で信濃法印に布施を渡している[2]。同年8月の祈祷においても布施を渡す役をしており「諸大夫」とあることから、この時点で従五位だったことがわかる[3]。
親広没後は次兄大江高元が寒河江荘を受け継ぐものの建長6年(1254年)[4]30歳(38歳とも)で早世したため、高元の室・藤原親実の娘が一時相続した後相続するに至る。相続の際、寒河江荘北方(北寒河江荘)は闕所となり北条氏の所領となってしまう。寒河江荘には目代を送り自身は鎌倉にあったものとみられる。
系譜
[編集]脚注
[編集]関連資料
[編集]- 『吾妻鏡』
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001