大江元顕
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 元亨2年3月18日(1322年4月4日) |
改名 | 法名:順阿永慶 |
墓所 |
吉川阿弥陀堂 山形県西村山郡西川町 |
官位 | 従五位下、右京亮、上総介、正五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 久明親王、守邦親王 |
氏族 | 大江氏親広流 |
父母 |
父:大江政広 母:毛利経光の娘 |
兄弟 | 元顕、広顕、親元、公顕、女 |
妻 | 村上頼清の娘? 村上頼治の娘? |
子 | 元政、懐広、顕広、天童修理の妻、女、高屋阿弥陀堂別当 |
大江 元顕(おおえ の もとたか)は鎌倉時代の御家人。寒河江氏5代。大江氏親広流として初めて寒河江荘に定住したという。
生涯
[編集]建治3年(1277年)父大江政広の死により家督を受け継ぐ。当初鎌倉にあり、幕職に就いたとみられるが弘安8年(1285年)鎌倉幕府内の内訌であった「霜月騒動」の結果、大江氏の一族である大江泰広(大江佐房の孫:殖田又太郎入道)、大江盛広(泰広の子)、大江泰元(泰広の子)らが討死しており、執権北条氏の圧力を避けるため寒河江荘に移ったと考えられている。焼失した慈恩寺の再建などに取り組み[1]、荘内の支配を確立していったとみられる。
元亨2年(1322年)3月18日に亡くなり、跡を長男の大江元政が継いだ。嫡男以外の子らは寒河江大江氏庶流の、柴橋氏・高松氏の祖となった。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考資料
[編集]- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001