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富小路俊通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
富小路俊通
時代 室町時代中期→戦国時代
生誕 嘉吉2年(1443年)頃
死没 永正10年3月5日1513年4月10日
別名 楽縁(法名)
官位 従三位?、宮内卿
主君 後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇
氏族 藤原氏醍醐源氏富小路家
父母 実父:藤原通慶[注釈 1][1]
義父:源康俊
兄弟 源久任源政氏一条兼良室(康俊の実子)
資直
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富小路 俊通(とみのこうじ としみち、嘉吉2年(1443年)頃 - 永正10年3月5日1513年4月10日))は、戦国時代公家藤原通慶の子[2]宮内卿源康俊猶子。後に二条家庶流の石見権守・藤原通治の子とする系図を偽作し、二条家の末裔を自称した[3]官位従三位・宮内卿。ただし『公卿補任』には俊通が従三位に叙された記録はない。

経歴

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九条家諸大夫として仕える一方、修理大夫宮内卿などを務め、延徳4年(1492年従四位下明応4年(1495年)従四位上、明応8年(1499年正四位下と昇進した。初めは醍醐源氏の宮内卿・源康俊猶子となるが、後に自身が関白二条道平の庶子である左衛門佐・藤原道直の後裔であるとする系図を偽作して二条家の庶流を称し、宣下無しに源氏から藤原氏改姓した[3]文亀2年(1502年従三位への上階を請うが、父祖の名前も明らかでない者が公卿の地位を求めたとして、中御門宣胤殿上人達から批判を受けている[4][3]。翌文亀3年(1503年従三位に叙せられて公卿に列したとされるが、『公卿補任』に俊通の名前は見えない。

歌人として文明5年(1473年)の『按察使親長卿家歌合』や明応元年(1492年)の『竹内僧正歌合』などに出詠。連歌作品が『新撰菟玖波集』に採録されている。また『源氏物語』の注釈書『三源一覧』を著した。

永正10年(1513年)3月5日薨去享年70歳前後か。

官歴

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注記のないものは『諸家伝』による。

系譜

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注記のないものは『系図纂要』による。

  • 父:藤原通慶[7]
  • 母:不詳
  • 義父:源康俊
  • 生母不詳の子女

脚注

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注釈

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  1. ^ 浄土寺門跡侍法師石見法橋

出典

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  1. ^ 平山敏治郎「堂上格富小路家成立の顛末」『日本常民文化紀要』(成城大学大学院文学研究科、1982年)
  2. ^ 平山敏治郎「堂上格富小路家成立の顛末」『日本常民文化紀要』(成城大学大学院文学研究科、1982年)
  3. ^ a b c 井出麻衣子「永正年間の補任歴名について[1]
  4. ^ a b 『宣胤卿記』文亀2年3月5日条
  5. ^ a b c 『歴名土代』
  6. ^ 『日本人名大辞典』
  7. ^ 平山敏治郎「堂上格富小路家成立の顛末」『日本常民文化紀要』(成城大学大学院文学研究科、1982年)

参考文献

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