中御門宣胤
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時代 | 室町時代中期-戦国時代 |
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生誕 | 嘉吉2年(1442年) |
死没 | 大永5年11月17日(1525年12月1日) |
改名 | 宣胤→乗光(法名) |
官位 | 従一位、権大納言 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇→後柏原天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流中御門家 |
父母 | 父:中御門明豊、母:慶覚の娘 |
妻 | 甘露寺朝子(甘露寺親長の娘) |
子 | 宣秀、隆永、宣増、黒木の方(山科言綱室)、寿桂尼、尚子 |
特記 事項 | 今川氏輝、義元の母方の祖父 |
中御門 宣胤(なかのみかど のぶたね)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流中御門家当主。官位は従一位・権大納言。出家後の法名は乗光。
生涯
[編集]嘉吉2年(1442年)、権大納言・中御門明豊の子として生まれる。翌年、数え2歳にして叙爵。
文安5年(1448年)従五位上・右衛門佐に任ぜられる。康正元年(1455年)正五位上左少弁・蔵人、翌年に右中弁に進み、以後朝廷の実務に携わる。
寛正2年(1461年)には後花園天皇の蔵人頭、寛正5年(1464年)後土御門天皇の蔵人頭となっている。やはり実務派官僚である甘露寺親長の娘を娶った。文正元年(1466年)従三位参議となり公卿に列する。
応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱以来、朝廷儀式の荒廃・形骸化は著しく、これを嘆いた宣胤は復興を目指して公卿の長老で有職故実に詳しい一条兼良らから教えを請い、先例を学んで若い公卿らに指導した。また、書道・和歌にも巧みで、しばしば揮毫を依頼されている。
長享2年(1488年)、権大納言に昇進。永正8年(1511年)には従一位に昇叙されるが、その後まもなく出家し、乗光と号する。
人物
[編集]日記として『宣胤卿記』がある。娘の寿桂尼は、今川氏親に嫁ぎ、氏輝・義元などを生み、孫の今川氏真の後見役を務めるなど影響力が強く、駿河の女大名と呼ばれた人物である。また、彼女が生んだ娘の1人が宣胤の嫡孫にあたる中御門宣綱に嫁いでいる。
官歴
[編集]- 嘉吉2年(1442年) 叙爵
- 文安5年(1448年) 従五位上、右衛門佐
- 康正元年(1455年) 正五位下、右少弁、左少弁
- 康正3年(1457年) 右中弁
- 長禄2年(1458年) 右宮城使
- 長禄3年(1459年) 正五位上
- 長禄4年(1460年) 左中弁
- 寛正2年(1461年) 従四位下、従四位上、蔵人頭、左宮城使、伊勢権守、正四位下
- 寛正3年(1462年) 正四位上
- 文正元年(1466年) 従三位、参議
- 応仁元年(1467年) 美濃権守
- 応仁2年(1468年) 権中納言
- 文明2年(1470年) 正三位
- 文明8年(1476年) 従二位
- 長享2年(1488年) 権大納言
- 延徳2年(1490年) 正二位
- 永正3年(1506年) 神宮伝奏
- 永正8年(1511年) 従一位、同年官を辞し出家
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 野島寿三郎編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年、ISBN 4816912444)574ページ「中御門宣胤」
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)「中御門宣胤」(執筆:小泉宜右)
- 『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年、ISBN 4642013482)「中御門宣胤」(執筆:鶴崎裕雄)
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