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安川敬一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安川清三郎から転送)
安川 敬一郎
やすかわ けいいちろう
肖像写真
生年月日 嘉永2年4月17日1849年5月9日
出生地 日本の旗 日本 筑前国早良郡鳥飼村
(現在の福岡県福岡市鳥飼
没年月日 (1934-11-30) 1934年11月30日(85歳没)
出身校 修猷館
慶應義塾中退
所属政党 公正会
称号 男爵
勲三等瑞宝章

選挙区 貴族院男爵議員
当選回数 1回
在任期間 1924年6月7日 - 1925年7月9日

選挙区 補欠
在任期間 1914年 - 1915年
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安川敬一郎

安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日1849年5月9日) - 昭和9年(1934年11月30日[1])は日本武士福岡藩士)、戦前実業家政治家炭鉱で財を成した筑豊御三家のひとつ地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年1月13日男爵授爵。勲三等瑞宝章撫松玄洋社社員[2]。私立明治専門学校(現・九州工業大学)創立者。

経歴

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代々亀井昭陽の学問の正系を継いだ福岡藩士族の家柄で、儒学者の徳永省易の四男・藤四郎として福岡城下に近い鳥飼村[3](現・福岡市中央区城南区鳥飼)に生まれる。

1864年元治元年)安川岡右衛門に16歳で婿入りし、1866年(慶応2年)、岡右衛門の四女の峰と18歳で結婚し家督を相続、名を敬一郎に改める。藩校・修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に学ぶ。1868年(慶応4年)3月藩の祐筆に登用され、6月学問所助教となり、1869年(明治2年)1月藩命により京都に留学、9月に帰藩して執政局に出仕、1870年(明治3年)10月静岡に留学を命ぜられ、1871年(明治4年)5月東京滞在中、7月長兄の徳永織人が贋札事件の責任を取って切腹したため帰藩し、10月再び東京に留学、1872年(明治5年)7月慶應義塾に入学、1874年(明治7年)2月三兄の幾島徳が官軍小隊長として、江藤新平島義勇佐賀の乱鎮圧のため佐賀に向かう途中、三瀬峠にて戦死したとの連絡を受け、慶應義塾を中途退学し急遽帰郷した。

帰郷後、学業を断念して幾島の仕事を引き継ぐことになり、炭坑経営に着手した。1877年(明治10年)に芦屋石炭販売業を始め、1880年(明治13年)相田炭鉱及び庄司炭鉱を経営。1886年(明治19年)店を若松に移転。同年明治炭鉱を開発する。1888年(明治21年)若松築港株式会社(現・若築建設)を創立[4]1889年(明治22年)平岡浩太郎と共に赤池炭鉱を開発する。1893年(明治26年)二男松本健次郎と「安川松本商店」を設立、父である安川は炭鉱経営、松本はその販売と分担し親子二人三脚体制を築く。1896年(明治29年)明治炭礦株式会社を創立し[4]門司に事務所を設置、その後支店を東京、大阪、神戸に拡大していった。

同志的な繁がりがあった平岡浩太郎により、1881年(明治14年)に福岡に玄洋社が創設されると社員となり、安川の炭鉱経営による豊富な資金が、その後の玄洋社の活動を支えた。辛亥革命が起こると、頭山満の大きな再三の反対を顧みず、孫文を神戸から東京に迎え、自分の隣家を孫文の隠家に借り4年間、毎月孫文に5百円の生活費を提供していた。また、漠冶萍公司との共同事業として辛亥革命後、中国から銑鉄の供給を受けることとし、艦船用厚板製造を主たる目的として中国との合弁企業を始めた(後の西八幡の九州製鋼株式会社)。その他、著書『撫松餘韻』(昭和10年出版)では黒龍会の活動を記した。

1907年(明治40年)技術者養成を目的とし、明治専門学校(現・九州工業大学)を戸畑に設立。1908年(明治41年)松本及び三男の安川清三郎と共に明治鉱業株式合資会社を設立。1909年(明治42年)4月明治専門学校開校。1910年(明治43年)松本と共に「明治専門学校附属小学校(現:明治学園)」を創立。1913年(大正2年)、反袁世凱を掲げて中華民国前臨時大総統として亡命した孫文戸畑明治専門学校に迎え、返礼に「世界平和」と書いた書が贈られた[5]

1914年(大正3年)11月衆議院議員総選挙に補欠当選する。その後、1918年(大正7年)にかけて、明治紡績、安川電機、九州製鋼(のち八幡製鐵所が買収)、黒崎窯業を設立する。また、九州鉄道取締役、若松築港社長、筑豊石炭鉱業組合総長、明治鉱業社長、九州製鋼会長等を務め、1922年(大正11年)4月経済界から引退した。この間、1920年(大正9年)1月13日これまでの功績により男爵の爵位を授爵。功により勲三等に叙し、瑞宝章を賜る。1924年(大正13年)6月7日、補欠選挙で貴族院男爵議員に互選され[6]公正会に所属し1925年(大正14年)7月9日まで在任した[1]。墓所は福岡市善龍寺。

安川第五郎は子(五男)。

北九州市戸畑区にある旧安川邸は敬一郎の邸宅であり、2022年から一般公開されている。

設立した会社・学校

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親族

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脚注

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  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』87頁。
  2. ^ 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、玄洋社社員名簿62頁。
  3. ^ 安川敬一郎 北九州イノベーションギャラリー 2018年7月17日閲覧。
  4. ^ a b 秦郁彦 2002.
  5. ^ いのちのたび博物館 安川電機 2018年7月17日閲覧。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
  7. ^ a b c 安川敬一郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  8. ^ a b c 「安川・松本家のひとびと」西日本シティ銀行、平成3年12月
  9. ^ 松本健次郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  10. ^ 安川清三郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  11. ^ 『現代の系譜: 日本を動かす人々』東京中日新聞出版局, 1965, p242
  12. ^ 平成24年出水市議会第2回定例会会議録第2号出水市議会
  13. ^ 松本源一郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  14. ^ 鶴原定吉『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  15. ^ 安川第五郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  16. ^ 安川謙介『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。ISBN 978-4-13030-120-6 531頁
  • 日記、安川宛書簡、安川の書簡草稿、安川の意見書類など関係史料は、北九州市立自然史・歴史博物館に安川家から寄贈され、公開されている。
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(安川家 九州財界の重鎮)』 角川書店 1983年 129-133頁
  • 有馬学編『近代日本の企業家と政治---安川敬一郎とその時代』吉川弘文館、2009年。ISBN 978-4-642-03790-7
  • 安川撫松『撫松余韻』1935年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257426 
  • 浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年。ISBN 978-4-86329-154-6
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目

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外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
安川(敬一郎)家初代
1920年 - 1934年
次代
栄典喪失
その他の役職
先代
安達仁造
筑豊石炭鉱業組合総長
1903年 - 1911年
次代
麻生太吉