大泊町
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(大泊市から転送)
おおどまりちょう/おおとまりちょう 大泊町 | |
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廃止日 | 1949年6月1日 |
廃止理由 |
国家行政組織法施行 |
現在の自治体 | コルサコフ |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 樺太地方 |
都道府県 | 樺太庁 豊原支庁 |
郡 | 大泊郡 |
面積 | 128.782[1] km2. |
総人口 |
21,779人 (1941年12月1日) |
隣接自治体 | 深海村、千歳村、富内村 |
大泊町役場 | |
所在地 | 樺太庁大泊郡大泊町本町大通南4丁目 |
特記事項 | 1943年4月1日以降は北海地方に所属。 |
ウィキプロジェクト |
大泊町(おおどまりちょう/おおとまりちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を、現状に関してはサハリン州およびコルサコフの項目を参照。
概要
[編集]江戸時代から明治初頭にかけては久春古丹(クシュンコタン)と呼ばれており、中心地は後の楠渓町一帯であった。日本領有期の当初においては樺太庁が置かれ、樺太の大都市であった。
もとはアイヌ語でポロアントマリ(Poroantomari、「大きな港」の意味)と呼ばれたが、日本の統治下に入ってから、1908年の内務省告示第29号により、オホトマリ(大泊)と改名された。
樺太の南部亜庭湾沿いにあり、亜庭湾のほぼ中央部奥に位置する。台地・神楽岡を囲むように広がる市街地北部には楠渓町がある。
歴史
[編集]- 1679年 - 松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
- 1806年 - ロシア海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。
- 1853年 - ロシア軍が久春古丹を襲撃、付近に駐屯地を建設。
- 1870年2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
- 1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約により、樺太全島がロシア領土となる。
- 1905年(明治38年) - ポーツマス条約により、樺太南部が日本領土に帰属する。
- 1905年(明治38年) - コルサコフに樺太民政署が置かれる。
- 1907年(明治40年) - コルサコフに樺太庁が置かれる。
- 1908年(明治41年) - コルサコフより大泊に名称変更。
- 1908年(明治41年)8月13日 - 樺太庁が豊原へと移転した。
- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により行政区画として発足。大泊郡に所属し、大泊支庁が管轄。
- 1923年(大正12年) - 稚泊航路(稚内港駅 - 大泊港駅)開設。(稚泊連絡船)
- 1924年(大正13年) - 大泊湾一帯の森林でマツカレハが大量発生。一夜にして数百町歩の森林が食い荒らされる被害となる。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により一級町村となる。
- 1942年(昭和17年)11月 - 管轄支庁が豊原支庁に変更。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
- 1946年(昭和21年) - ソ連当局がコルサコフと改称
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日大泊町廃止。
町内の地名
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地域
[編集]教育
[編集]以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[3]。
国民学校
[編集]- 樺太公立大泊国民学校
- 樺太公立船見国民学校
- 樺太公立楠渓国民学校
- 樺太公立旭丘国民学校
- 樺太公立古牧国民学校
中等学校
[編集]- 樺太庁大泊中学校
- 樺太庁大泊高等女学校
- 樺太公立大泊商業学校
金融機関
[編集]- 北海道拓殖銀行大泊支店
公共交通機関
[編集]- 大泊市街軌道 - 樺太大泊郡大泊町の大泊駅から同楠渓町駅の間を結んでいた私鉄。樺太では唯一の路面電車であり、ガソリンカーで運行されていた。
著名な出身者
[編集]脚注
[編集]- ^ 市町村別日本国勢総攬 下卷(帝国公民教育教会 1938年)に「面積 八・三五方里」とあり。
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1679、p. 1692 - 93
関連項目
[編集]- 樺太庁の廃止市町村一覧
- 大泊 (砕氷艦)‐旧日本海軍の砕氷艦。艦名は亜庭湾北部の大泊港にちなむ。