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大塚田鶴子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おおつか たづこ
大塚 田鶴子
本名 大塚 たね (おおつか たね)
生年月日 (1912-08-02) 1912年8月2日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市北区曾根崎上
職業 女優
ジャンル 劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画解説版
活動期間 1933年 - 1937年
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大塚 田鶴子(おおつか たづこ、1912年8月12日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3]。本名大塚 たね(おおつか たね)[1]。活動時期はトーキーの時代であったが、サイレント映画(のちにサウンド版)にのみ出演した女優である[2][3]

人物・来歴

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1912年大正元年)8月12日大阪府大阪市北区曾根崎上に生まれる[1]

市川右太衛門プロダクションに1933年(昭和8年)までに入社し、同年8月10日に公開された、小石栄一監督のサイレント映画爆走する退屈男』に出演したのが、もっとも古い記録である[2]。同社は奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)のあやめ池遊園地内にあった。1935年(昭和10年)の初めに極東映画に移籍、同年3月、仮に使用していた京都の御室撮影所(かつてのエトナ映画社跡地)から、兵庫県西宮市甲陽園にある甲陽撮影所(かつての東亜キネマ跡地)に移った第1作とされる堀江大生監督の『仇討春秋』に出演する[3][4]。同社は、翌1936年(昭和11年)に大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の同府羽曳野市翠鳥園)へと製作拠点を移転したが、俳優の羅門光三郎市川寿三郎綾小路絃三郎ら、監督の下村健二、園池成男(古海卓二)、児井秀男(のちの児井英生)が甲陽撮影所に残留、同年5月に甲陽映画を設立しており、大塚も彼らとともに甲陽映画に移籍した[2][3]。設立第1作、下村健二監督の『元和三勇士』に大塚も出演した[2][3]。甲陽映画は、1937年(昭和12年)4月、配給提携先のマキノトーキー製作所とともに財政が悪くなり、同年5月には解散した[5]

大塚が最初に所属した市川右太衛門プロダクションは、前年に松竹キネマに吸収され、奈良・あやめ池の撮影所は閉鎖されていたが、市川右太衛門の実兄・山口天龍が同年5月に全勝キネマを設立、同撮影所を再度稼働させた[6]。大塚は、甲陽映画の崩壊とともにこの全勝キネマに移籍し、数本に出演したが、移籍の年以降の出演記録が見当たらない[2][3]。全勝キネマは1941年(昭和16年)に松竹傘下に吸収されて興亜映画となり、あやめ池撮影所は閉鎖された。時代は第二次世界大戦に突入し、その後の消息はわからない。没年不詳

フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[2][3]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

市川右太衛門プロダクション

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すべて製作は「市川右太衛門プロダクション」、配給は「松竹キネマ」である[2]。特筆した「サウンド版」以外はすべて「サイレント映画」である[2]

極東映画

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すべて製作・配給は「極東映画」である[2]。すべて「サイレント映画」である[2]

甲陽映画

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すべて製作は「甲陽映画」、配給は「千鳥興業」のちに「マキノトーキー製作所」である[2]。すべて「サウンド版」である[2]

配給 千鳥興業
配給 マキノトーキー製作所

全勝キネマ

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すべて製作・配給は「全勝キネマ」である[2]。すべて「サイレント映画」である[2]

脚注

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  1. ^ a b c 大塚田鶴子jlogos.com, エア、2012年12月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 大塚田鶴子日本映画データベース、2012年12月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 大塚田鶴子、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月4日閲覧。
  4. ^ 仇討春秋、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月4日閲覧。
  5. ^ 柳生二蓋笠マツダ映画社、2012年12月4日閲覧。
  6. ^ 全勝キネマ株式会社奈良県、2012年12月4日閲覧。
  7. ^ a b c d e 大塚田鶴子、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月4日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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