多治比土作
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 宝亀2年6月10日(771年7月26日) |
官位 | 従四位上・参議 |
主君 | 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇 |
氏族 | 多治比氏 |
父母 | 父:多治比水守 |
子 | 今麻呂 |
多治比 土作(たじひ の はにつくり/はにし)は、奈良時代の公卿。左大臣・多治比嶋の孫。宮内卿・多治比水守の子。官位は従四位上・参議。
経歴
[編集]聖武朝の天平12年(740年)従五位下に叙爵。天平15年(743年)新羅使が来日した際、検校新羅客使に任ぜられて筑前国に派遣される。新羅使が調を土毛(くにつもの)と改称したこと、書面の最後に物品数を記していることをもって、旧例を踏まえると大いに礼を失していると報告した。この結果、太政官は水手以上の者を召して、失礼な書面であることを告げ、速やかに退去を命じたという[1]。のち、摂津亮・民部少輔を歴任する。
天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位後まもなく紫微大忠に任ぜられる。藤原仲麻呂政権下では尾張守・西海道節度副使と地方官を歴任する一方、天平宝字元年(757年)従五位上、天平宝字7年(763年)正五位下と昇進する。天平宝字8年(764年)4月に文部大輔として京官に復すが、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は不明。
称徳朝に入り、天平神護2年(766年)従四位下に昇進したのち、左京大夫・治部卿を歴任する。神護景雲4年(770年)光仁天皇即位後まもなく従四位上・参議に叙任されて公卿に列した。宝亀2年(771年)6月10日卒去。最終官位は参議治部卿従四位上。
和歌作品
[編集]天平勝宝3年(751年)藤原仲麻呂邸において開かれた遣唐使・藤原清河に対する餞別の宴において、「住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ」と詠んだという[2]。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平12年(740年) 正月13日:従五位下
- 天平15年(743年) 3月6日:検校新羅客使。6月30日:摂津亮
- 天平18年(746年) 4月11日:民部少輔
- 天平勝宝元年(749年) 8月10日:紫微大忠
- 天平勝宝6年(754年) 4月5日:尾張守
- 天平宝字元年(757年) 5月20日:従五位上
- 天平宝字5年(761年) 11月17日:西海道節度副使
- 天平宝字7年(763年) 正月9日:正五位下
- 天平宝字8年(764年) 4月11日:文部大輔
- 天平神護2年(766年) 11月5日:従四位下
- 神護景雲2年(778年) 正月:兼相模守[3]。2月18日:左京大夫。7月1日:治部卿
- 神護景雲4年(770年) 7月20日:従四位上、参議
- 宝亀2年(771年) 6月10日:卒去(参議治部卿従四位上)