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多治比土作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
多治比土作
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 宝亀2年6月10日771年7月26日
官位 従四位上参議
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇
氏族 多治比氏
父母 父:多治比水守
今麻呂
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多治比 土作(たじひ の はにつくり/はにし)は、奈良時代公卿左大臣多治比嶋の孫。宮内卿多治比水守の子。官位従四位上参議

経歴

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聖武朝天平12年(740年従五位下叙爵。天平15年(743年新羅使が来日した際、検校新羅客使に任ぜられて筑前国に派遣される。新羅使が調を土毛(くにつもの)と改称したこと、書面の最後に物品数を記していることをもって、旧例を踏まえると大いに礼を失していると報告した。この結果、太政官は水手以上の者を召して、失礼な書面であることを告げ、速やかに退去を命じたという[1]。のち、摂津亮民部少輔を歴任する。

天平勝宝元年(749年孝謙天皇即位後まもなく紫微大忠に任ぜられる。藤原仲麻呂政権下では尾張守西海道節度副使と地方官を歴任する一方、天平宝字元年(757年)従五位上、天平宝字7年(763年正五位下と昇進する。天平宝字8年(764年)4月に文部大輔として京官に復すが、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は不明。

称徳朝に入り、天平神護2年(766年従四位下に昇進したのち、左京大夫治部卿を歴任する。神護景雲4年(770年光仁天皇即位後まもなく従四位上・参議に叙任されて公卿に列した。宝亀2年(771年)6月10日卒去。最終官位は参議治部卿従四位上。

和歌作品

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天平勝宝3年(751年藤原仲麻呂邸において開かれた遣唐使藤原清河に対する餞別の宴において、「住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ」と詠んだという[2]

官歴

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続日本紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平15年4月25日条
  2. ^ 『万葉集』巻19
  3. ^ a b c 『公卿補任』

参考文献

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