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多治比今麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
多治比今麻呂
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平勝宝3年(753年
死没 天長2年8月29日825年10月14日
官位 従三位参議
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 多治比氏
父母 父:多治比土作
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多治比 今麻呂(たじひ の いままろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿参議多治比土作の八男。官位従三位参議

経歴

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延暦13年(794年中判事次いで式部少丞に任ぜられる。延暦16年(797年従五位下肥後介に叙任。桓武朝末に京官に復し、式部権少輔・勘解由次官右少弁を歴任する。

延暦25年(806年平城天皇の即位後まもなく、美作介となり再度地方官に転じる。大同3年(808年)に従五位上・大宰少弐に叙任されて大宰府に赴任した。

嵯峨朝に入ると、大同5年(810年)正月に正五位下・右中弁に叙任され再度京官に復し、同年9月に発生した薬子の変に伴って従四位下に昇叙される一方、新たに皇太子に冊立された大伴親王(のち淳和天皇)の春宮大夫も兼ねた。その後、式部大輔・大蔵卿左京大夫を歴任したのち、弘仁8年(817年)参議に任ぜられて公卿に列した。議政官として大蔵卿・宮内卿を兼帯し、弘仁11年(820年)には従四位下から続けて昇叙されて従三位となり、同年末には大宰帥に転じている。

天長2年(825年)8月29日薨去。享年73。最終官位は参議従三位[1]

官歴

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註釈の無いものは『六国史』の記載に従う。

脚注

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  1. ^ 日本後紀天長2年8月29日条。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 公卿補任』。

参考文献

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  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年