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堀光亀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日[1] - 1940年6月25日[2])は、日本教育者である。東京商科大学(後の一橋大学)の発展を支えた。商業大学必要論を著し、東京商業学校商科大学昇格に貢献した。日本で初めて海運学を創設した。

来歴

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1876年(明治9年)、長崎県で元島原藩士石河光英の三男として生まれた。画家・石河光哉は弟。長崎市立商業学校に入り、上京、東京商業学校に入学した。1902年(明治35年)卒業後、同校の講師となった[3]

略歴

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栄典

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商業大学必要論

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欧米帰国後、堀は直ちに「商業大学必要論」を執筆する。同著の中で、堀は「吾人が商業大学の設立を望む所以のものは、徒に大学という名称に拘泥するが故にあらず、名実兼備せる商業大学の制度を確立しこれを設置するに在り。すなわち商業に必要な高等の学術技能を授け、その蘊奥を攻究することを目的と最高商業教育の設立を希望するに在り。人或いは言わん、実にして存せば、何ぞその名を要せんやと。既に高等商業教育授くる機関存す、東京高等商業学校、即ち是なり。而かもその専攻部の如き斯学の蘊奥を攻究するところにして、その業を了えたるものは帝国大学と等しく、学士の称号を冠し得るにあらずや。」と述べ、東京高等商業学校を商業大学として制度化する必要性を訴えている[17]。また、当時における商業に関する最高教育機関として以下を挙げている[18]

さらに商業大学を名乗るにふさわしくとも、未だにそこに至っていない理由として

  • 古来大学の多くは歴史的因襲に束縛され、学科の新設が困難であること
  • 新たな学科の創設の必要性を認めた場合にも、その創設は大学の業務を増大させ、経営統御を困難にすること

を挙げている。

商業大学が日本において必要な理由

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  • 経済状態の発展に伴う必要性
    鎖国経済時代の名残がないとは言えない。しかし、わが日本帝国は今や世界経済の一員となり国威の発揚はいよいよ経済活動の範囲を拡大するに至っている。その時にあたり、深遠な学識と教養を有する人材の育成を必要とするところは論を待たない。その人材育成機関として商業大学を設立することが必要である。 — 堀光亀、[19]
  • 商工立国を国是とするが故の必要性
    狭土の我が国は商工業をもって国是としているが、商工業を率いる者はそれが伸縮力の大なるだけに伸縮自在な頭脳を持つのではない。特に工業において工業技師のみで充分としてしまうのは大いなる誤りである。現今の工業は手工業ではなく世界的競争の渦中にあり、大経営の下にこれを行う企業である。技師の必要性は言うまでもないが、統御の才能ある企業者なしには殖産はなしえない。 — 堀光亀、[19]
  • 先進欧米諸国との地理的距離から生じる不利を補う必要性
    既に商工業の発展を遂げた欧米諸国ですら、商業大学の設立は早急の課題である。ましてや欧米の事情に疎い我が国にとって、欧米流に商工業を経営することを目的とする最高教育機関が必要であるのは言うまでもない。 — 堀光亀、[19]
  • 商人の品格を高め、賤商の弊害を取り除く必要性
    現今国家の幸福を増進するのに最も必要なのは商人の職務であり、商人がその本分及び地位を自覚し自重するに至るには、最高商業教育の力に俟つほかはない。 — 堀光亀、[19]
  • 人物、経済上の利益による必要性
    我が国の商家に生まれた者は、将来商業に身を委ねる境遇にありながら、単に大学の名に誘われ、世間が二流と称する高等商業に学ぶことを欲せず、大学に商科がないが故に法科を選択することの矛盾を感じない。卒業の後、商業に従事すれば法科で習得した学識を十分に適用する道はなく、商務に暗く商機を弁えず、人物経済の損害これより大きいものはない。 — 堀光亀、[19]

人物

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一橋大学東キャンパス、正門と本館の間に堀の胸像が建つ。1941年(昭和16年)4月12日に建立された。

ゼミナール受講者の感想

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堀先生の古武士然たる風格と、このゼミの先輩後輩の仲の良さ、連絡の良さに魅せられて参加させて戴きました。(中略)堀先生や矢島先輩のご厚意により住友合資会社に入れていただいたが、その方が社風も良く官吏より良かったと思っています。不思議なご縁で海運専攻のゼミ卒業生の私が日本郵船株式会社や大阪商船株式会社などに入社せず、住友金属に入って満州十年、晩年は住友海運で暮らすようになりました。堀先生や矢島先生のご恩は一生忘れられず、上京した時はお墓に合掌しています。 — 宮武栄太郎(昭和5学)、[5]
私は一橋では俗に傍系、当時の神戸高商本科二年から一橋学部に転部した。プロゼミナールの選択に当たっては、たまたま神戸時代伊藤講師の面白おかしい海運論の講義に惹かれていたために迷うことなく堀光亀先生の交通論を選んだ。入門のお願いに当時千駄ヶ谷に在った先生のお宅にお伺いして、初めてあの懐かしい古武士の風貌をされた先生にお目にかかった。ひとしきり対談の後、先生曰はく「ワシは神戸高商出の奴はあまり好かんがお前は一寸変わったところがあるから入れてやろう」と言われたのには度肝を抜かれた。当時、私自身、序論、本論、結論とこじんまり固まった神戸の校風にいささか飽き足りなかっただけに、先生の所論が吾意も得たし、また初対面お言葉としていまだに忘れえない。 — 吉田八郎(旧:池田八郎)(昭和5学)、[5]

著作

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  • 単独図書
  • 図書の一部、分担執筆、編集、翻訳等
    • 堀光亀著「國防は浮遊よりも遥かに重要なり」『アダム、スミス生誕二百周年記念論集』(東京商科大学商学研究編集所)
    • 堀光亀「太平洋に於ける封米海運問題を論ず」『東京商科大学創立五十周年記念論文集』(東京商科大学)
  • 一橋新聞への寄稿
    • 第一号 「排日問題と一橋の使命」堀光亀
    • 第十一号「一橋の声」
    • 第二十九号「年頭所感」
    • 第四十六号「プロゼミナール紹介」

脚注

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出典

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  1. ^ a b 鈴木豊重『中央大学史』中央大学史編纂部、1927年、p.183。
  2. ^ 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』日外アソシエーツ、1983年、p.441。
  3. ^ Captains」(PDF)『HQ』vol.29 冬号、一橋大学、2011年1月、39頁。 
  4. ^ 堀光亀 1972, p. 61.
  5. ^ a b c d 一橋大学学園史編纂事業委員会 編「一橋ゼミナール」『一橋大学学園史資料』1979年。 
  6. ^ 東京商科大学一覧 昭和16年度
  7. ^ 『官報』第7165号、1907年5月21日。
  8. ^ 『官報』第7813号、1909年7月12日。
  9. ^ 『官報』第8544号、1911年12月12日。
  10. ^ 『官報』第534号、1914年5月12日。
  11. ^ 『官報』第2072号、1919年7月2日。
  12. ^ 『官報』第2499号、1920年11月30日。
  13. ^ 『官報』第3609号、1924年9月2日。
  14. ^ 『官報』第1511号、1932年1月16日。
  15. ^ 『官報』第2355号、1934年11月6日。
  16. ^ 『官報』第3089号、1937年4月22日。
  17. ^ 堀光亀 1972, p. 147.
  18. ^ 堀光亀 1972, pp. 148–150.
  19. ^ a b c d e 堀光亀 1972, pp. 152–157.

参考文献

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  • 船橋治『復刻版 一橋新聞』 第1、2巻、不二出版、1988年。 
  • 堀光亀 著、三宅勇三 編『堀光亀自叙伝』三瀧社、1972年。 
  • 一橋大学学園史編纂事業委員会『一橋のゼミナール』1983年。