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北横町 (弘前市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 青森県 > 弘前市 > 北横町 (弘前市)
北横町
北横町の位置(青森県内)
北横町
北横町
北横町の位置
北緯40度36分35.45秒 東経140度28分40.89秒 / 北緯40.6098472度 東経140.4780250度 / 40.6098472; 140.4780250
日本の旗 日本
都道府県 青森県
市町村 弘前市
人口
2017年(平成29年)6月1日現在)[1]
 • 合計 253人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
036-8046
市外局番 0172[2]
ナンバープレート 弘前

北横町(きたよこちょう)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8046。2017年6月1日現在の人口は253人、世帯数は122世帯[1]

地理

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町域の北部を土淵川が流れる。北部は田茂木町田町、東部は野田、南部から西部にかけて和徳町、北西部は山王町に接する。

歴史

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  • 延宝5年 - 東長町七丁目・八丁目間(現:和徳町)を境に北は東長町北横町、そして南は東長町南横町(現:南横町)として町割りがされ、当地を指す東長町北横町は屋敷41(弘前惣御絵図)。
  • 宝永4年 - 郭内武家屋敷の郭外移転により、改めて屋敷割りが行われ、同時に当地から八幡宮まで現在の田町が成立(平山日記)。
  • 宝暦6年 - 町屋が91軒(弘前町惣屋鋪改大帳)。
  • 文政年間 - 当地は一丁目から四丁目に分かれて構成され、すべて町屋(和徳町絵図)。
  • 天保8年 - 町屋が96軒(弘前絵図)。
  • 幕末 - 町屋と武家屋敷の入り交じった町となる。
  • 1897年明治30年) - 陸軍第8師団の設置に伴い、北川端町にあった遊廓が当地に移転。当時当地の西南(現:和徳町)に和徳小学校があり、学区民の反対運動があったが、和徳小学校が現在の代官町に移転したことにより、遊廓は当地から移転することなく、当地は弘前を代表する遊廓地となる。
  • 1927年昭和2年) - 当地の遊廓から出火した火災が和徳町・南横町萱町植田町・代官町まで燃え広がり、438戸を焼く大火となる。
  • 1957年(昭和32年) - 売春防止法が施行されたことにより、遊廓は旅館になる。
  • 現在 - その他に残っていた遊廓の建物も、現在までに姿を消し、工場、商社のビルが建ち、著しく変化。

沿革

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  • 江戸期 - 弘前城下の一町。
  • 明治初年~明治22年 - 弘前を冠称。
  • 1899年(明治22年) - 弘前市に所属。

施設

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医療

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  • あづま内科(閉院)
  • 三上内科医院
  • ほくおう歯科医院

福祉

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  • 社会福祉法人弘前草右会

商業

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  • 木村建具製作所

公共

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  • 北横町会館
  • 土淵川北横町緑地

その他

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小・中学校の学区

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市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。

大字 番地 小学校 中学校
北横町 全域 弘前市立和徳小学校 弘前市立第一中学校

交通

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脚注

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  1. ^ a b オープンデータひろさき 弘前市 町名別人口・世帯数_平成29年”. ひろさき未来戦略研究センター (2017年6月1日). 2017年6月18日閲覧。
  2. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。

参考文献

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角川日本地名大辞典 2 青森県(角川書店)