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下白銀町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 青森県 > 弘前市 > 下白銀町
下白銀町
弘前城天守
弘前城天守
下白銀町の位置(青森県内)
下白銀町
下白銀町
下白銀町の位置
北緯40度36分4.07秒 東経140度27分51.45秒 / 北緯40.6011306度 東経140.4642917度 / 40.6011306; 140.4642917
日本の旗 日本
都道府県 青森県
市町村 弘前市
人口
2017年(平成29年)6月1日現在)[1]
 • 合計 241人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
036-8356
市外局番 0172[2]
ナンバープレート 弘前

下白銀町(しもしろがねちょう)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8356。2017年6月1日現在の人口は241人、世帯数は139世帯[1]

地理

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当地の中心部に弘前城が位置し、主に弘前公園と文化・観光施設で構成される。町域の北部は亀甲町、東部は大浦町蔵主町元寺町、南東部は元長町、南東部から南部にかけて元大工町、南部は上白銀町、南西部は馬屋町、西部は五十石町紺屋町に接する。

歴史

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  • 寛永末年頃 - 追手門の東部が片原町、北部の外東門までが下片原町と見える。この時点での町名である片原町の由来は、町域の一方が堀の片端にあることからとおもわれる(津軽弘前城之絵図)。
  • 正保2年 - 町屋とある(津軽弘前城之絵図)。
  • 慶安2年 - 銀町と見え、30軒余りの屋敷割りがされ、町屋と武家屋敷が混在している。このうち町屋には商家である宮崎屋・田村屋のほかに檜物屋・煙草作り・索麺屋・居鯖・鍔職人・箔屋・鉄砲師・藩医も居住(弘前古御絵図)。
  • 慶安2年 - 寺町(現:元寺町)の大火後、当地は武家地となり、銀町の町名は百石町と本寺町を結ぶ鉄砲町が白銀町となる。
  • 寛文13年 - 武家屋敷のみで22軒(空屋敷1軒)ある(弘前中惣屋敷絵図)。
  • 天和3年 - 町内の一部が召し上げられ、町名が下白銀町になる(国日記)。
  • 元禄年間 - 武家屋敷の郭外移転により、外堀沿いの当地は中・下級武士の屋敷街から大身の屋敷街に変わる。
  • 元禄12年 - 家老津軽靭負・大道寺隼人などの屋敷地が配置される(国日記)。
  • 元禄13年 - 追手門前に江戸衆屋敷が設置され、町年寄の屋敷も見える(津軽史)。
  • 亨和3年 - 寛政7年開設の稽古館が追手門前に見える(御家中町割)。
  • 文久2年 - 兵性改革により、稽古館跡地には修武堂が設置される(津軽歴代記類)。
  • 1870年明治3年) - 修武堂のほかに津軽右近らの重臣の屋敷地がある(弘前図)。
  • 1872年(明治5年) - 藩校跡に市立東奥義塾が開校。
  • 1877年(明治10年)3月29日 - 当地に地方裁判所が弘前裁判所として移転(現:青森地方裁判所弘前支部・弘前簡易裁判所)。

沿革

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  • 江戸期 - 弘前城下の一町。
  • 寛永末年頃 - 片原町・下片原町と称される。
  • 慶安2年 - 銀町と称される。
  • 天和3年 - 下白銀町と称される。
  • 明治初年~明治22年 - 弘前を冠称。
  • 1899年(明治22年) - 弘前市に所属。

施設

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教育

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  • 学校法人白銀学園サンモードスクールオブデザイン

医療

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  • 松枝歯科

商業

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通信

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メディア

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文化施設

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  • 弘前市立博物館
  • 弘前市立郷土文学館
  • 弘前市立弘前図書館
  • 弘前市立観光館
  • 笹森記念体育館

ホール

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旧跡

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行政

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重要文化財

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かつて存在した施設

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小・中学校の学区

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市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。

大字 番・番地 小学校 中学校
下白銀町 全域 弘前市立時敏小学校 弘前市立第一中学校

交通

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脚注

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  1. ^ a b オープンデータひろさき 弘前市 町名別人口・世帯数_平成29年”. ひろさき未来戦略研究センター (2017年6月1日). 2017年6月18日閲覧。
  2. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。

参考文献

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角川日本地名大辞典 2 青森県(角川書店)