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勝沼精蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1955年

勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年明治19年)8月28日 - 1963年昭和38年)11月9日)は、兵庫県神戸市生まれの医学者。専門は血液学神経病学医学博士名古屋帝国大学医学部教授、第三代名古屋大学総長、第三代国立名古屋病院院長を務めた[1]

1926年(大正15年) に学士院賞を受賞、1954年(昭和29年)に文化勲章を受章した。1953年(昭和28年)にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がったが受賞を逸している[2]

略歴・人物

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静岡県立静岡中学校[3]第一高等学校を経て、1911年(明治44年) 、東京帝国大学医学部卒業。1912年(明治45年)、 東京帝国大学三浦内科入局・副手。1913年(大正2年)、病理学教室に勤務。1918年(大正7年)、フランス留学。1919年(大正8年)1月〜8月、パリ講和会議特使随員(三浦教授に随行)[注釈 1]。同年11月、愛知県立医学専門学校教授。1920年(大正9年)、県立愛知病院内科第一部長(兼任)。1923年(大正12年)、愛知医科大学教授。

1926年(大正15年)、「オキシダーゼの組織学的研究」で日本学士院賞受賞。1931年(昭和6年)、名古屋医科大学教授(第一内科)。1932年(昭和7年)、名古屋医科大学付属病院長。1938年(昭和13年)、第一回日本血液学会会長[4]1939年(昭和14年)、名古屋帝国大学教授。附属医院長。1941年(昭和16年)1月、兼航空医学第一講座。1943年(昭和18年)、脳の電気活動記録を指す "Electroencephalogram" の訳語として「脳波」を提唱[5]、脳波研究の重要性を認め、日本において研究班を組織した[5][注釈 2]

1947年(昭和22年)、国立名古屋病院長。同年、学士院会員。1949年(昭和24年)、名古屋大学総長。1951年(昭和26年)、皇室の医学顧問(昭和38年5月まで)。1954年(昭和29年)、文化勲章受章。1957年(昭和32年)、西独、フライブルク大学より名誉博士号。

没後の1963年(昭和38年)11月10日、勲一等旭日大綬章を追贈され、従二位に叙された。墓所は豊島区駒込染井霊園

名古屋大学創設・整備の功労者。血液学、航空医学、神経病学、腫瘍学などに業績を残した。血液学では国際血液学会長を務め、日本血液学会、日本航空医学会、日本老年医学会、日本網内系学会などの創設に尽力。名古屋大学豊田講堂に胸像が設置されている。

栄典

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親族

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脚注

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  1. ^ “医を拓く 名古屋大学医学部150年”. 中日新聞朝刊: p. 16. (2021年12月8日) 
  2. ^ Nomination Database
  3. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 46頁。
  4. ^ 日本血液学の歩み日本血液学会
  5. ^ a b 時実利彦・藤森聞一・島薗安雄佐野圭司『新脳波入門』南山堂、東京、1959年、2頁。 
  6. ^ 官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。

注釈

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  1. ^ 西園寺公望の主治医。西園寺が亡くなるまで務めた。
  2. ^ この研究班は、のち本川弘一に引き継がれ、1947年に脳波研究委員会、1952年に日本脳波学会となった。同学会は1971年に日本筋電図学会と合同して日本脳波・筋電図学会となり、さらに2000年に改称して日本臨床神経生理学会となった。

関連項目

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不老会

参考文献

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  • 泉孝英 編『日本近現代医学人名事典 1868-2011』 172頁。医学書院 2012