劉亨安
劉 亨安(りゅう きょうあん、? - 1243年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。
概要
[編集]劉亨安は先祖が范陽の人であったが、後に川州宜民県に移住してきた家の出であった。チンギス・カンによる金朝侵攻が始まると、劉亨安の兄の劉世英がムカリ率いるモンゴル軍に投降した。劉世英はムカリ軍に属して燕州・趙州・雲州・朔州・河東の攻略に功績を挙げ、行軍副総管の地位を授けられた。1220年(庚辰)には戦火によって荒廃した平陽地方のため、劉世英はムカリに撫民に力を入れるよう進言した。そこでムカリは劉世英を絳州節度使・兼行帥府事に任命したが、それから間もなく劉世英は子を持たないまま亡くなってしまった。そのため、ムカリの息子のボオルの命によって族兄の劉徳仁が跡を継いだ。しかし1226年(丙戌)に金朝の将軍の移剌副枢が絳州を攻めた際に劉徳仁は戦死したため、ここに至って初めて劉亨安が一族の総領に任じられ、鎮国上将軍・絳州節度使・行元帥府事・兼観察使の称号を受けられた[1]。
1230年(庚寅)からはモンゴル軍の第二次金朝侵攻に従軍し、1231年(辛卯)春には鳳翔を攻略して渭陽に駐屯し、秋には鄧州に至った。1232年(壬辰)にモンゴル軍は河南で集結し、金軍主力を三峰山で破った。1234年(甲午)には金の哀宗が逃げ込んだ蔡州を攻略することで名実ともに金朝を滅ぼし、盟約を裏切って南宋軍が開封に迫るとタガチャルとともにこれを撃退するべく出撃した。タガチャルと劉亨安が進門の北で南宋軍と遭遇すると、劉亨安の奮戦によって南宋軍は潰走し、100里に渡ってモンゴル軍は南宋軍を追撃した。戦後、タガチャルは「劉亨安こそ真の驍将である」と諸将に語り、その功績に厚く報いたという。1236年(丙申)からは四川方面軍に転属となり、タガイに従って散関・剣門などの攻略に功績を挙げた。更に進んで成都を包囲した際も、劉亨安は先鋒を務め、城の西で南宋軍を破り敵将の陳侍郎を捕虜とする功績を挙げた。また、ある時喬長官と攻城で功を争ったが、喬が砲撃で負傷するとこれを背負って退却したため、喬は深く感謝したという[2]。
10年近くに渡って劉亨安はモンゴル軍に属し戦功を重ねてきたが、1243年(癸卯)冬に亡くなった。息子に劉貞、孫に劉弘・劉彊・劉弴らがいた[3]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻150列伝37劉亨安伝,「劉亨安、其先范陽人、後遷遼東川州。初、国王木華黎経略遼東、兄世英率宗族郷人隷麾下、分兵収燕・趙・雲・朔・河東、以功充行軍副総管。庚辰、平陽諸郡被兵之餘、民物空竭、世英言於王曰『自古建国、以民為本、今河東殺掠殆尽、異日我師復来、孰給転輸収存恤亡、此其時也』。王善之。以絳州辺地、難其人、奏授世英絳州節度使、兼行帥府事。卒于師、無子、国王孛魯命其族兄徳仁襲職。丙戌歳、金将移剌副枢攻絳州、城陥、死之。木華黎承制命亨安領其衆、奏賜金虎符、授鎮国上将軍・絳州節度使、行元帥府事、兼観察使」
- ^ 『元史』巻150列伝37劉亨安伝,「庚寅冬、従王師渡河入関。辛卯春、克鳳翔、歴秦・隴、屯渭陽。秋、出階城、沿漢抵鄧。壬辰、会大軍於鈞州、敗金人於三峰山。甲午、平蔡。既而宋兵二十万攻汴、将趨洛、都元帥塔察児俾亨安往拒之、与宋軍遇龍門北、遂横槊躍馬、奮突而前、衆因乗之、宋師奔潰、追撃百餘里、塔察児拊其背曰『真驍将也』。延坐諸将之右、労賜甚厚。丙申、都元帥塔海征巴蜀、攻散関、破剣門、出奇制勝、戦功居多。進囲成都、亨安為先鋒、大破之於城西、生擒宋将陳侍郎。有喬長官与亨安争功、未幾、攻城、喬為砲所傷、亨安負之以出、喬感愧」
- ^ 『元史』巻150列伝37劉亨安伝,「亨安従軍十年、累著勲伐、所獲金帛、悉推与将佐、故士卒咸楽為用。癸卯冬十二月卒。子貞、嗣職。孫三人弘、彊、弴」