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静岡鉄道自動車部静岡営業所
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静岡鉄道国吉田営業所(しずおかてつどうしずおかくによしだえいぎょうしょ)は、かつて静岡市に存在した静岡鉄道自動車部の事業所である。管轄路線を鳥坂営業所、唐瀬営業所に移管し1989年(平成元年)に廃止された。
所在地
[編集]- 静岡市黒金町(無番地)
- 1955年(昭和30年)3月31日まで
- 静岡市鷹匠1丁目71番地
- 1955年(昭和30年)4月1日以降
- 1958年(昭和33年)6月1日 - 機構改正により静岡営業所から各営業区をそれぞれ静岡第一営業所、静岡第二営業所、清水営業所に分離。
概説
[編集]1957年(昭和32年)に開催された第12回国民体育大会(静岡国体)の輸送力増強のために、メイン会場となる静岡県草薙総合運動場および静岡鉄道静岡清水線の運動場駅に最寄りの国道1号(通称 静清国道)沿いに開設された静岡鉄道自動車部静岡営業所静岡第二営業区を前身とする。静岡国体開催の前年に、静岡営業所静岡営業区(静岡市鷹匠町)を、主に市内路線を管轄する静岡第一営業区(静岡市鷹匠町)と、郊外路線や貸切バスを管轄する静岡第二営業区(静岡市国吉田)に分離増強し、国体輸送に対応した。静岡国体終了後には静岡第二営業所となり、静岡市内のバス路線競願問題の決着によって開設された新規路線も担うようになった。
さらに1960年代初頭には静岡鉄道が「体質改善五ヶ年計画」を策定し、静岡清水線を除く鉄軌道を廃止し、路線バスへの転換によりバス事業を会社の根幹に据える方針を打ち出した。これを受け、車両の増強や営業所の郊外移転、バスターミナルの整備拡充が進められ、1960年代前半までに、旧静岡市の路線バス事業は新静岡に運行管理所を残し静岡第一営業所を廃止し、第二営業所が静岡国吉田営業所となり、新たに開設された静岡丸子営業所、静岡小鹿営業所を含めた郊外3営業所体制となった。 静岡第二営業所が所管していた郊外路線のうち、安倍川以西の長田地区、藁科川流域を起終点とするものを丸子営業所に移管した。また、廃止となった静岡第一営業所が所管していた市内路線のうち、主に新静岡、静岡駅から北東側の路線が静岡国吉田営業所に移管された。
1960年代後半以降は国吉田営業所が管轄する静岡市北東部の千代田、瀬名地域では大規模住宅団地が次々と建設されており、また近隣には常葉学園系列の短期大学や高校が開校するなど、輸送力の増強が必要となっていた。一方で、国吉田営業所に接続する静清国道(国道1号)の交通量は年々増加し、慢性的な渋滞が運用に支障を来たすようになっていた。このため、現在の県道67号線(通称 北街道)と静清バイパス建設予定地の交差する清水市鳥坂付近に車庫の建設を開始した。
1970年(昭和45年)に静岡鳥坂営業所が竣工し、国吉田営業所からツーマン運行を要する市内路線や「安倍線」「竜爪山線」等の山間路線、都市間急行路線や貸切バス事業が移管され、国吉田営業所は主に市内のワンマン路線を担当する営業所へと転換された。一方で、国吉田営業所構内には新たに静岡鉄道傘下となった貸切バス事業者である静岡観光バス(のちの静鉄ジョイステップバス)の本社営業所が開設され、東名高速道路開通によって増大した観光バス需要に対応した。
1970年代以降も、千代田、麻機地域では宅地造成や病院施設、流通団地や卸売市場などの建設が相次ぎ、それらを結ぶ新系統が開設された。加えて1975年からの導入車にはバックカメラが採用され、道路事情に合わせた中型車の導入により狭隘路線のワンマン化が進んだことにより 更なる運用の効率化が図られる事となり、1970年代末期に静岡市岳美に唐瀬車庫が開設され、1980年代初頭には鳥坂営業所の一部路線も唐瀬車庫の拡張と共に移管され、唐瀬営業所が開設された。
また、郊外路線の増強と共に瀬名新田、足久保、麻機、麻機北、大浜などの郊外の起終点に車庫が分散化され、小鹿営業所も隣接する用地の買収により敷地を拡張したことにより管轄路線を再編し、1980年代末期に国吉田営業所は廃止された。また、営業所構内を共用していた静岡観光バスも東名高速道路静岡IC近く(静岡市下川原)に移転し、跡地には賃貸用物流倉庫が建設された。現在は静鉄グループのバスの車検、重整備を担う東海自動車工業の本社および整備工場のみが国吉田営業所付近に所在している。
沿革
[編集]- 1945年(昭和20年)戦時統合による5社合併後の社内組織の整理の前に静岡市内に空襲が続き甚大な被害を受けたため、終戦後はまず静岡市内に車両を重点的に配置し、組織づくりから開始した。
- 1946年(昭和21年)- 銀行支援によって軍用車の払い下げも含め車両の増強を行い、同年5月には静岡 - 用宗間などの路線を再開した。旧静岡市に自動車部静岡営業所および静岡営業区を、旧清水市には清水営業区を開設した。
- 1947年(昭和22年)1月25日 - 静岡市内循環線の運転を再開した。
- 1952年(昭和27年)- 当時の国鉄と静岡市から静岡駅前広場をバスターミナルからタクシー駐車場に変更するためターミナルを移転するよう勧告を受け、これを機に折から計画されていた鷹匠町駅周辺への本社社屋建設と鷹匠町駅の大改築に併せてバスターミナルの移転を決定し、鷹匠町駅の改良工事が開始された。
- 1953年(昭和28年)時期不詳 - 増資により「東部循環線」に重点を置いた市内路線の増強を図り、東町車庫(静岡市日之出町135)を新築した。
- 1954年(昭和29年)10月1日 - 鷹匠町駅改良工事が竣工し、新静岡駅に改称された。
- 1955年(昭和30年)
- 3月25日 - 新静岡駅南広場に事務室、出札室件待合室用の2階建て1棟と乗車ホーム等の施設が完成し、それまで静岡駅構内の駅前案内所(静岡市黒金町)に置かれていた自動車部静岡営業所とバスターミナルを新静岡駅(静岡市鷹匠町1-71)に移転し、4月1日より新静岡バスセンターとして供用を開始した。
- 10月1日 - 静岡県草薙総合運動場をメインスタジアムとする第12回国民体育大会(静岡国体)の輸送に対応するため社内に国体輸送委員会が設置され、増資や以降4期間の自己資金と4億円の借入により、電車の新造・購入のほか136両のバス購入や施設の拡充等が計画された。
- 1956年(昭和31年)
- 2月27日 - 静岡市議会協議会が市営乗合バス事業案を発表した。
- 4月1日 - 静岡鉄道静岡清水線の運動場前駅近くの国道1号沿い(静岡市国吉田・運動場入口停留所)に車庫を開設し、静岡営業所静岡営業区を、主に市内路線を担当する静岡営業所第一営業区と、郊外路線と貸切バスを担当する静岡営業所第二営業区(静岡市国吉田535-2)に改編した。
- 5月 - 東海観光自動車が市内外5路線の免許を申請した。
- 7月 - 名古屋陸運局で静岡市内バス競願問題に関する1回目の聴聞会が開かれた。
- 8月 - 静岡鉄道の自動車整備・点検を担う東海自動車工業の新工場が国吉田車庫に隣接して建設され、同年10月には本社を藤枝市から移転した。
- 1957年(昭和32年)
- 5月17-18日 - 静岡市および東海観光自動車株式会社により提出された「静岡市内バス営業免許申請」に関し、運輸審議会による公聴会が開催された。
- 10月26-30日 - 静岡国体が開催され、静岡県草薙総合運動場と各地の輸送を完遂した。
- 1958年(昭和33年)
- 1960年(昭和35年)
- - 運動場入口停留所の名称が国吉田車庫前に変更された。
- - 静岡市議会で静岡鉄道静岡市内線の撤去が議論された。
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 3月15日 - 国吉田寮(国吉田545-1)が増築され第二女子寮が竣工した。
- 4月23日 - 「丸子線」(静岡駅 - 二軒家)間の運行を開始した。
- 9月15日 - 静岡市内線(静岡駅前 - 安西間)の廃止に伴い新静岡駅の電停バースをバスホームに転換し、代行バス運行を開始した。
- 10月1日 - 機構改正により、静岡観光営業所(静岡市日之出町8-2)が開設され、貸切業務の一元的な調整による効率化が図られた。
- 11月1日 - 静岡市内線の線路跡に新ターミナルを建設し、新静岡バスセンターの増改築が完成した。
- 11月20日 - 静岡県下初のワンマンカーが「西部第二循環線」に導入された。
- 12月1日 - 静岡駅前の渋滞の緩和のため、各路線の新静岡 - 静岡駅前間の運行経路が変更された。
- 12月21日 - 新静岡車両留置場跡地に静岡第一営業所の新社屋が落成した。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡丸子営業所が開設され、「藁科線」「用宗線」「丸子線」等の移管を進めた。
- 1965年(昭和40年)- 静岡駅構内から現在の東静岡駅周辺に操車場や貨物駅等が移転し、静岡駅北口東側の引込線跡地にバス駐車場が整備された。
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)-
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1978年(昭和53年)頃 時期不詳 - 静岡市岳美に唐瀬車庫が開設された。
- 1981年(昭和56年)
- 時期不詳 - 管轄路線の再編が行われ、唐瀬営業所が開設された。
- 静岡ターミナルホテル建設に伴い静岡駅北口東側のバス駐車場が閉鎖された。
- 1983年(昭和58年)3月24日 - 静岡駅北口に駅前広場とバスターミナルが竣工し、これに合わせて新静岡と静岡駅前の乗降場を変更した。
- 1989年(平成元年)
市内路線
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静岡市内循環線
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- 概説
- 1937年(昭和12年)に、それまで「東部循環線」「西部循環線」として市内循環路線を運行していた静岡自動車と駿遠自動車(静岡電気鉄道と藤相鉄道の共同出資により設立)が合併し静岡乗合自動車となり、さらに戦時統合により静岡鉄道が継承したが、空襲により車両の殆どを被災したため、戦後は大まわりの「静岡市内循環線」として復興し、車両の増強が進んだ1948年(昭和23年)に東西の路線に分離した。
- 1950年代以降も車両の増強に従い上記2路線以外に様々な市内循環系統が新設、再開されると共に、戦前戦後の合併による市域拡大と近郊の宅地化により、市内中心部(駿府城下)と近郊を循環する路線が申請された。静岡市、東海観光観光バスとの競願の末に1950年代後半に新たに循環線7路線が開設された。
- 1960年代前半には静岡第一営業所(鷹匠町)の廃止に伴い管轄の再編が行われ、静岡運行管理所(新静岡バスセンター)を中心に、主に東海道本線を境に北東部まわりを静岡国吉田営業所、北西部まわりを静岡丸子営業所、南部まわりを静岡小鹿営業所が所管するようになった。
- 1960年代から1970年代にかけては経営改善のために車両の大型化を図ったが、一方で交通規制(車両制限令、一方通行規制等)により、運行経路の変更や系統の整理再編が行われた。また、住宅地の郊外への拡大により「城北循環」や「柳新田循環」が開設されたが、遅延運行解消のために循環路線を廃止し、郊外路線に再編されて行った。
- 「中部循環線」「西部循環線」「安東循環線」と、通勤通学時間帯のみ運行の「大岩安東循環線」に集約された1980年代前半には「西部循環線」を皮切りにバスロケーションシステムが順次導入され、これにあわせ再び中小型バスでの運行が行われるようになった。
- 沿革
- 1925年(大正14年)11月20日 - 静岡自動車が市内循環線の認可を得た。
- 1926年(大正15年)2月20日 - 静岡自動車が呉服町 - 安西間に路線を開設した。
- 呉服町 - 鷹匠町 - 浅間 - 安西(招魂社前)
- 1927年(昭和2年)8月30日 - 静岡自動車が静岡駅 - 末広町 間に路線を開設した。
- 静岡駅 - 川辺町 - 新富町 - 末廣町
- 1928年(昭和3年)
- 2月28日 - 静岡自動車が両替町 - 安西間に路線を開設した。
- 両替町 - 寺町(のちの駿河町、梅屋町)- 三番町 - 安西
- 5月16日 -
- 両替町 - 下石町(のちの常磐町、七間町)- 三番町 - 安西
- 2月28日 - 静岡自動車が両替町 - 安西間に路線を開設した。
- 1930年(昭和5年)10月1日 - 同日改正の静岡自動車の時刻表では、「循環線」として東廻り西廻り共に7時代から20時代まで20分間隔で運行されていた。
- 1931年(昭和6年)6月16日 - 静岡自動車が三番町 - 静岡駅間に丸山町、音羽町経由の路線を開設し、市内循環線を「第一循環線」「第二循環線」に分離した。
- 新規区間
- 三番町 - 一番町 - 浅間 - 丸山町 - 北安東 - 音羽町 - 栄町 - 静岡駅
- 第一循環線
- 第二循環線
- 新規区間
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)3月 - ガソリン等の資源統制により静岡乗合自動車が「南部循環」46回、その他路線47回の運行を廃止した。
- 1942年(昭和17年)3月 - 静岡市観光協会発行の時刻表では、静岡乗合自動車が西部循環線(中町廻り、駒形廻り)と中部循環線(七間町廻り・水落廻り)として次の経路を運行していた。
- 1945年(昭和20年)6月19日 - 静岡大空襲により車両設備の殆どを焼失した。
- 1947年(昭和22年)1月25日 - 静岡営業所静岡営業区(静岡市黒金町・静岡駅前)の管轄で「市内循環線」の運行を再開した。
- 1948年(昭和23年)11月8日 - 車両増強に伴い「東部循環」「西部循環」に分離し戦前の路線を再開した。
- 1950年(昭和25年)10月18日 - 「南部循環」の運行が開始された。
- 1951年(昭和26年)- 「中部循環」の運行が開始された。
- 1955年(昭和30年)12月1日 - 「北部循環」の運行が開始された。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 「本通音羽町循環」が運行を開始した。静岡営業区が第一営業区(静岡市鷹匠町)と第二営業区(静岡市国吉田)に分離され、市内循環路線が第一営業区の管轄となった。
- 1958年(昭和33年)12月5日 - 静岡市、東海観光バスとの競願の末、準郊外7路線(安東循環線・安倍川循環線・中原循環線、池ヶ谷循環線・沓之谷循環線・国吉田循環線・小鹿・石田循環線)が開業し、静岡第二営業所が管轄した。
- 1960年(昭和35年)-「西部循環」の補完路線として「西部第二循環」が新設された。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所を廃止し、静岡国吉田営業所、静岡小鹿営業所、静岡丸子営業所に移管した。
東部循環
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- 概説
- (1)仲町まわり、(2)東町まわり
- 静岡第一営業所の管轄路線であったが廃止に伴い国吉田営業所に移管された。
- 沿革
- 1930年(昭和5年)10月1日 -
- 1937年(昭和12年)4月10日 - 静岡自動車が駿遠自動車と合併し、静岡乗合自動車の路線となった。
- 1939年(昭和14年)2月 - 同月現在の 静岡乗合自動車の時刻表では
- 1948年(昭和23年)11月8日 - 「静岡市内循環線」を東西に分離した。
- 1953年(昭和28年)車両増強により増回を行った。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 新静岡バスセンター発着となった。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 静岡第一営業区の管轄となった
- 1958年(昭和33年)7月 - 同月現在の時刻表、路線図では次の経路を運行していた。
- 1962年(昭和37年)11月 - 同月現在の時刻表では、仲町廻り、東町廻り双方に西千代田経由と国立病院経由の2系統が存在しており、国立病院経由は日中のみ概ね30分間隔、西千代田経由を含め概ね10分毎の運行であった。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所から静岡国吉田営業所に移管された。
- 1964年(昭和39年)
- 5月1日 - 車両制限令の全面施行を前に運行経路を変更し、あわせて増回を行った。これに伴い「緑町循環」が廃止された。
- 10月1日 - 国道1号への右折渋滞回避のため東町廻りのみの運行となった。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 新静岡センター新バスターミナルの供用にあわせて水落まわりとなった。
- 1969年(昭和44年)5月16日 - 市内路線の再編に伴い廃止となった。
緑町循環
[編集][編集] 新静岡 → 鷹匠町二丁目 → 歯科医師会館前 → 水落町 → 横内中 → 横内 → 太田町 → 緑町 → 西千代田 → 北安東 → 安東三丁目 → 長谷通り → 英和女学院前→ 仲町 → 県民会館前 → 新静岡
- 「東部循環」のラッシュ時における車両の収容力や運行回数といった輸送力の制約を補うための路線として静岡第一営業所の管轄で開設された。このため日祝日運休で朝のラッシュ時(7時代~8時代)の「横内廻り」のみの運行であった。
- 1959年(昭和34年)6月15日 - 次の経路を運行していた。
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)5月1日 -「東部循環」の増強と共に廃止された。
本通音羽町循環
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- 概説
- 沿革
音羽町循環、音羽町草深循環
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- 1963年(昭和38年)- 静岡国吉田営業所の管轄で「東部循環」の補助的な路線として開設された。
- 1964年(昭和39年)10月 - 国道1号等、幹線道路への右折進入時の渋滞回避のため東町経由のみの運行となった。
- 1965年(昭和40年)8月16日 - ワンマン運行の開始と、運行回数の増強が行われた。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 「東部循環」の水落町経由への変更に伴い草深、中町を経由する「音羽町草深循環」に名称が変更された。仲町まわり、伝馬町まわり
- 1969年(昭和44年)5月16日 - 市内路線の再編に伴い音羽町 - 横内町区間が「城北線」に整理され廃止となった。
本通水落循環
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- 1963年(昭和38年)- 「本通音羽町循環」が、「音羽町循環」と「本通水落循環」に分離された。
- 1964年(昭和39年)5月1日 - 運行経路が一部変更され、ワンマン運行に切り替えられた。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 「駒形本通循環」を開設し、通学時間帯のみの運行となった。
- 1972年(昭和47年)の路線図では水落まわりが廃止され、駒形まわりのみとなっている。
- 1975年(昭和50年)7月現在の時刻表では廃止されている。
駒形本通循環
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西部循環線
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- 概説
西部第二循環線
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- 概説
中部循環
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- 概説
- (5)三番町廻り(6)水落廻り
- 沿革
- 1939年(昭和14年)2月 - 同月現在の 静岡乗合自動車の時刻表では
- 1951年(昭和26年)- 静岡営業所の管轄で運行を開始した。開設当初は七間町廻りと鷹匠町廻りで、朝6時代から22時まで30分毎の毎時2本が運行されていた。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 新静岡バスセンター発着となった。
- 1958年(昭和33年)の路線図では次の経路を運行しており、三番町廻りと水落廻りでの運行となっている。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所から静岡国吉田営業所に移管された。
- 1964年(昭和39年)
- 5月1日 - 車両制限令の完全施行を前に、これに抵触する三番町 - 常磐町区間(現 市道両替町通線 通称 両替町通り)が廃止され、安西四丁目 - 宝台橋(県道29号梅ヶ島温泉昭和線・国道362号線 通称 昭和通り)経由に変更された。これに併せてワンマン運行を開始した。
- 新静岡 - 水落町 - 城東町 - リフト前 - 赤鳥居 - 安倍町 - 安西 - 安西四丁目 - 一番町 - 本通三丁目 - 七間町 - 宝台橋 - 静岡駅前 - 新静岡
- 10月 - 右折渋滞回避のため水落廻りのみの運行となった。
- 5月1日 - 車両制限令の完全施行を前に、これに抵触する三番町 - 常磐町区間(現 市道両替町通線 通称 両替町通り)が廃止され、安西四丁目 - 宝台橋(県道29号梅ヶ島温泉昭和線・国道362号線 通称 昭和通り)経由に変更された。これに併せてワンマン運行を開始した。
- 1968年(昭和43年)10月 - 市内循環路線の再編に伴い運行経路が変更され、再び七間町廻りと水落廻りとなった。
- 1985年(昭和60年)- 4月現在の時刻表では、七間町まわりは朝晩のみの運行となっており、新静岡 - 安西四丁目区間が藁科線と重複区間のため、国道1号線から昭和通りへの右折に渋滞で時間がかかるために、日中の運行を廃止した。
- 1986年(昭和61年)4月現在の路線図からは消滅している。
北部循環
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- 概説
- 沿革
- 1955年(昭和30年)12月1日 - 静岡営業所の管轄で開設された。
- 1958年(昭和33年)の路線図では次の経路を運行していた。
- 1962年(昭和37年)- 11月現在の路線図では丸山町、長谷通り経由が「大岩循環」に整理される一方、新たに井の宮小学校、妙見下を経由する経路に変更されている。
- 1963年(昭和38年)- 静岡第一営業所から静岡丸子営業所に移管された。
- 1964年(昭和39年)5月1日 -「安西線」が井の宮小学校前まで延伸し、井の宮地区をラケット状に循環する「井の宮線」となり「北部循環」の八の字区間が解消された。
- 1968年(昭和43年)10月 - 市内路線の再編に伴い静岡駅 - 安西四丁目間が「中部循環」に、北番町 - 赤鳥居 間が「井の宮線」に整理され廃止された。
南部循環
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- 概説
- (9)仲町まわり(10)東町まわり
- 沿革
- 1938年(昭和13年)3月 - ガソリン等の資源統制により静岡乗合自動車が「南部循環」46回の運行を廃止した。
- 1950年(昭和25年)10月18日 - 静岡営業所の管轄で運行が再開された。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所から静岡小鹿営業所に移管された。
- 1964年(昭和39年)- 八幡一丁目 - 豊原町区間が車両制限令に抵触するため、カネボウ通りの拡幅(都市計画道路南幹線)により運行経路が変更された。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 同日改正の時刻表では8時代から19時代まで15分間隔で運行されていた。
- 1969年(昭和44年) - 循環系統を廃止し「駅南小鹿線」となった。
小鹿循環線
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- 沿革
大谷循環線
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- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 沿革
宮竹循環
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- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 1950年代半ばに開設された久能街道、石田街道を経由して静岡駅南部を循環する路線で、外回りを有東廻り、内回りを石田廻りとしていた。1950年代後半には静岡駅前 - 有東 - 高松 間が「富士見線」に、静岡駅 - 石田 - 高松 間が「久能山線」に整理され廃止となった。
- 沿革
安東循環線
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- 概説
- 1950年代後半に市営バスとの競願問題の決着により新たに開設された路線であり、
- 沿革
大岩循環
[編集][編集] 静岡駅前 → 県民会館前 → 仲町 → 英和女学院前 → 長谷通り → 安東三丁目 → 大岩宮下町 → 丸山町 → リフト入口 → 赤鳥居 → 安倍町 → 八千代町 → 東町 → 仲町 → 県民会館前 → 新静岡 → 静岡駅前
市内路線のラッシュ時における車両の収容力や運行回数といった輸送力の制約を補うための路線として静岡第一営業所の管轄で開設された。このため日祝日運休で朝のラッシュ時(7時代~8時代)の「長谷廻り」のみの運行であった。静岡駅からは主に静岡英和女学院、静岡高校、静岡大学への通学に利用された。
- 1959年(昭和34年)6月15日 - 次の経路を運行していた。
- 1962年(昭和37年)11月25日 -
- 1964年(昭和39年)10月1日 - 丸山町付近の狭隘区間の渋滞回避のため運行経路を変更した。
- 1966年(昭和41年)5月10日 -
大岩安東循環
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