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利用者:SiliconProphet/Yamato Kingship

ヤマト王権
ヤマト政権
北東側の藤原宮跡から見た畝傍山
後方に見えるのは金剛山地
奈良県橿原市(旧大和国)
概要
対象国 日本の旗 日本
地域 倭国大和地方
政庁所在地 大和地方
代表 大王
備考
3世紀に大和地方の有力豪族らが政治連合を形成し、律令制確立の過程で「政権」、「朝廷」としての体裁を整えていった。
朝廷
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ヤマト王権ヤマトおうけんは、3世紀から始まるとされる古墳時代に「」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。今の大阪平野奈良盆地などの大和地方、または邪馬台国九州説では九州の国がまわりの国を従えた。

旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。

本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について解説する。

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。

ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。

名称について

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1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の呼称が一義的に用いられていた。

しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定年輪年代測定の方法が使用され、一般にその精度が向上されたと評価されたために古墳の編年研究が著しく進捗し、「大和」、「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れ、その見解が日本国での歴史学の学会などで有力になり、そのため「大和時代」ではなく、かわって「古墳時代」と呼称するのが日本国での日本史研究および日本国での高等教育では一般的となっている[注 1]。しかし、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する[1]

古墳研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権について「ヤマト王権」や「大和政権」等の用語が使用され始めた。1980年代以降は、「大和政権」、「ヤマト政権」、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」、「大和王権」と記述されるようになる。

しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている[2]。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。

2020年現在、メディアでは「政権」や「王権」の表記もあるが、「朝廷」も使用されており統一されていない[3][4][5][6]

「大和」をめぐって

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「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある[7]。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる[2]

「大和(ヤマト)」はまた、

  1. 国号「日本)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)
  2. 令制国としての「大和」(上述)
  3. 奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡十市郡倭国造

の広狭三様の意味をもっており[8]、最も狭い3.のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記よりも、3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。

白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違している[注 2]ことに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている[9]。すなわち、白石によれば、1.~3.に加えて、4.大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。

いっぽう関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている[10]。 一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる[2]

武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の「飛鳥」や「斑鳩」といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を「大和朝廷」発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる[2]

「朝廷」をめぐって

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朝廷」の語については、天子朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し[10]、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している[11]

「国家」「政権」「王権」「朝廷」

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関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している[10]。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例[12]があり、混乱もあることを指摘している[10]

用語「ヤマト王権」について

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古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している[13]

山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている[14]。いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している[15]

また、山尾によれば、

  • 190年代-260年代 王権の胎動期。
  • 270年頃-370年頃 初期王権時代。
  • 370年頃-490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から)

という時代区分をおこなっている[14]

この用語は、1962年昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない[13]

「大和朝廷」

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大和朝廷(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。

  1. 律令国家成立以前に奈良盆地を本拠とした有力な政治勢力およびその政治組織。
  2. 大和時代古墳時代)の政府・政権。「ヤマト王権」。
  3. 飛鳥時代または古墳時代後半の天子天皇)を中心とする官僚制をともなった中央集権的な政府・政権。

この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。

現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征長髄彦説話を掲げている[16]

なお、中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。たとえば、

  • 安康天皇以前を「ヤマト王権」、5世紀後半の雄略天皇以後を「ヤマト朝廷」 - 平野邦雄[17]
  • 宣化天皇以前を「倭王権」または「大和王権」、6世紀中葉の欽明天皇以後を「大和朝廷」 - 鬼頭清明[18]

など。

首長の称号

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ヤマト王権の首長は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主」などと称していた。[要出典]考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている[注 3]

史書の記録

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前史

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日本書紀』によれば、伊奘諾尊伊奘冉尊の間にうまれた太陽神である天照大神が皇室の祖だという。その子天忍穂耳尊栲幡千千姫高皇産霊尊の娘)の間にうまれた子の瓊瓊杵尊(天孫)は、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原より日向の高千穗峰に降臨した(天孫降臨)。

瓊瓊杵尊は、大山祇神の娘である木花之開耶姫をめとり、火闌降命(海幸彦。隼人の祖。)・火折尊(山幸彦。皇室の祖。)・火明命尾張氏の祖)をうんだ。山幸彦と海幸彦に関する神話としては「山幸彦と海幸彦」がある。

火折尊は海神の娘である豊玉姫を娶り、二人の間には彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊がうまれた。鸕鶿草葺不合尊はその母の妹である玉依姫をめとり、五瀬命稲飯命三毛入野命磐余彦尊がうまれた。瓊瓊杵尊より鸕鶿草葺不合尊までの3代を「日向三代」と呼ぶことがある。

神武東征と建国

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神武東征をあらわす明治時代初期の版画月岡芳年

磐余彦尊は日向国にあったが、甲寅年、45歳のときに饒速日物部氏の遠祖)が東方の美しい国に天下った話を聞いた。磐余彦尊は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめてその地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。速吸の門では、国神である珍彦(倭国造の祖)に出会い、彼に椎根津彦という名を与えて道案内にした。筑紫国菟狭一柱騰宮、同国水門を経て、安芸国埃宮吉備国高島宮に着いた。磐余彦は大和の指導者長髄彦と戦い、饒速日命はその主君であった長髄彦を殺して帰順した。辛酉年、磐余彦尊は橿原宮ではじめて天皇位につき(神武天皇)、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。

伝承の時代

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初代天皇の神武天皇(神日本磐余彦天皇)のあとは、

以上の8代は記紀において事績の記載がほとんどないため、欠史八代と称されることがある。

第10代天皇の崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇)は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも称され、この別名は神武天皇の別名と同訓である。崇神天皇は三輪氏大物主大神を祀らせ、四道将軍を派遣したとされる。この将軍派遣記事が初の本格的な日本統一運動であり、この時期に各地で古墳が築造され始める。

第11代天皇は垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)である。相撲埴輪の起原は垂仁天皇の時代にあるとされる。

第12代天皇は景行天皇(大足彦忍代別天皇)である。景行天皇は九州の征伐に赴き、皇子日本武尊は東国へ遠征を行ったとされる。

第13代天皇は成務天皇(稚足彦天皇)である。父と日本武尊の遠征・平定を受け、この時代に東北から九州までの諸国に国造県主を設置した。これは4世紀代後半までに東北から九州南部にかけて、古墳(前方後円墳、前方後方墳)が築造されたことに符合する。

第14代天皇は仲哀天皇(足仲彦天皇)である。その皇后神功皇后は仲哀天皇崩御後に熊襲征伐や三韓征伐を行い、その後即位せずに政務をとったとされる。

第15代天皇は応神天皇(誉田天皇)である。

第16代天皇の仁徳天皇(大鷦鷯天皇)は「聖帝」と称され、河内平野の開拓にいそしみ、人家のから炊煙が立ち上がらないことを知って租税を免除するなど仁政を施した逸話で知られる。


第17代天皇は履中天皇(大兄去来穂別天皇)である。

第18代天皇は反正天皇(瑞歯別天皇)である。

第19代天皇は允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰天皇)である。この時代に中央豪族や各地の豪族に対してを与えたとされる。

第20代天皇は安康天皇(穴穂天皇)である。

第21代天皇の雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)は倭の五王の最後として『宋書』倭国伝に記された「倭王武」であるとされる。また、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘、および熊本県江田船山古墳出土の鉄刀銘には雄略天皇の名と一致する人名がみられる。

以後、

とつづく。

古墳時代

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武烈天皇には子がなく、大伴金村らは近江国高島郡で生まれ越前国で育った応神天皇5世孫の男大迹王を推挙し、王は即位した(第26代天皇の継体天皇)。ここに皇統の断絶があったとする見解もある。

以後、

とつづく。

崇峻天皇は蘇我馬子の命により暗殺され、初の女帝となる推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が継いで第33代天皇となった。

神話伝承を根拠とする諸事

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皇紀と建国記念の日

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神武天皇の橿原宮での即位は「辛酉年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って紀元前660年に相当し、それを紀元とする紀年法が「皇紀」(神武天皇即位紀元)である。西暦1940年昭和15年)は皇紀2600年にあたり、日中戦争の戦時下にあったためもあり、「紀元二千六百年記念行事」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。

1890年明治天皇により創建された橿原神宮橿原市

また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり(中国で665年につくられ、日本で692年から用いられた『儀鳳暦(麟徳暦)』によっている)、これは旧暦の1月1日ということであるが、明治政府は太陽暦の採用にあたり、1873年(明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦2月11日を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日が新暦2月11日に相当するとされたためであった。この布告にもとづき、戦前は2月11日が紀元節として祝日とされていた。紀元節は、大日本帝国憲法発布の日(1889年(明治22年)2月11日)、広田弘毅発案による文化勲章の制定日(1937年(昭和12年)2月11日)にも選ばれ、昭和天皇即位後は四方拝(1月1日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日、明治天皇誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。

紀元節は太平洋戦争大東亜戦争)終結後1948年に廃止された。「建国記念日」を設置する案は度々提出されたが神武天皇の実在の真偽などから成立には至らず、1966年に妥協案として「の」を入れた「建国記念の日」が成立した。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、1966年昭和41年)の祝日法改正では「国民の祝日」に加えられ、今日に至っている[注 4]

『日本書紀』は雄略紀以降、元嘉暦(中国で443年に作られ、日本で691年まで単独使用された(翌年から697年までは儀鳳暦と併用))で暦日を記しているが、允恭紀以前は『日本書紀』編纂当時の現行暦である儀鳳暦に拠っている。船山の大刀銘が「大王世」と記す一方、稲荷山の鉄剣名が「辛亥年」と記すことから、まさに雄略朝に元嘉暦は始用され、それ以前には、まだ日本では中国暦による暦日は用いられていなかったと考えられている。むろん7世紀につくられた儀鳳暦が用いられていたはずもなく、神武即位日を新暦に換算することは不可能である。

神宝と皇室行事

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皇室に伝わる神宝は「三種の神器」と呼称され、天孫降臨の際に天照大神から授けられたとする鏡(八咫鏡)、剣(天叢雲剣)、玉(八尺瓊勾玉)を指す。

大和時代に起源をもち、今日まで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか10月17日の「神嘗祭」や11月23日の「新嘗祭」がある。「大祓」もまた、大宝令ではじめて明文化された古い宮中祭祀である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「曲水宴」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある[19]

なお八咫鏡と大きさが同じ直径46cmでその図象が「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と類似する大型内行花文鏡が福岡県糸島市の平原遺跡から5枚出土しており、三種の神器との関連が考えられている。

関連神社

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脚注

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注釈

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  1. ^ 一例をあげると、1979年(昭和54年)の高等学校用日本史教科書『詳説日本史』(井上光貞ら著、山川出版社)では、時代名称として「古墳時代」、国土の大半を統一した勢力として「大和朝廷」の語が使用されていた。
  2. ^ 淀川水系では要所要所に前方後円墳や前方後方墳が営まれるのに対し、大和川水系では出現期においては三輪山麓に集中し、4世紀以降大規模な古墳が営まれる葛城地域や河内南部に顕著な古墳がみられないこと。また、4世紀以降、巨大な前方後円墳が数多く営まれるのはいずれも大和川水系であり、淀川水系ではごくわずかであること。
  3. ^ これを研究者によっては小中華主義の萌芽とする見解もあるが、一方で小中華主義とは「中国(大中華)に次する文明国である(小中華)とする思想」と定義している研究者もおり(一例として河宇鳳著『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』)、この場合、ヤマト王権の「中華王朝と異なる別の天下であるという意識」は「小中華」に当たらないこととなる。
  4. ^ 明治節であった11月3日は「文化の日」、昭和天皇誕生日であった4月29日は昭和天皇崩御後「みどりの日」を経て、現在は「昭和の日」として国民の祝日となっている。

出典

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  1. ^ 鷲崎弘朋木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」『東アジアの古代文化』136号、大和書房、2008年。
  2. ^ a b c d 武光誠『「古代日本」誕生の謎』(2006)p29
  3. ^ 全く新しい古墳の楽しみ方を紹介します! あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル - NHK古墳特集番組。松木武彦の発言も含めて「ヤマト政権」に統一されている。
  4. ^ まほろば再発見:黒塚古墳(天理市) 「卑弥呼の鏡」大量出土 /奈良 - 毎日新聞。「ヤマト政権」の表記
  5. ^ ヒエ塚古墳、全長は129メートル 発掘調査、基底石など発見 天理 /奈良 - 毎日新聞。「ヤマト王権」の表記
  6. ^ <まちの話題>伊勢山神社春の大祭 8日、豊作と世の平安祈る - 佐賀新聞。「大和朝廷」の表記
  7. ^ 平野邦雄「大和朝廷」平凡社『世界大百科事典』(1988)、関 (1990, pp. 53–54)など
  8. ^ 白石 (2002, pp. 79–84)。(原出典は、直木孝次郎 (1970))
  9. ^ 白石 (2002, pp. 79–84)
  10. ^ a b c d 関 (1990, pp. 53–54)
  11. ^ 鬼頭「大王と有力豪族」『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』(1989)p.250脚注
  12. ^ 朝比奈正幸ほか『新編日本史』(1987)
  13. ^ a b 山尾 (1995, p. 11)
  14. ^ a b 山尾 (2005)
  15. ^ 白石 (1999, p. 72)
  16. ^ 武光 (1999)
  17. ^ 平野 (1988)
  18. ^ 鬼頭 (1994)
  19. ^ 武光 (2006)

参考文献

[編集]
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  • 鬼頭清明「大王と有力豪族」『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』朝日新聞社、1989年4月8日。ISBN 4-02-380007-4
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  • 吉村武彦『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』集英社、1991年8月11日。ISBN 4-08-195003-2
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  • 吉田孝『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』小学館<小学館ライブラリー>、1992年10月。ISBN 4-09-461003-0
  • 吉村武彦「倭国と大和王権」『岩波講座日本通史 第2巻古代1』岩波書店、1993年10月。ISBN 4-00-010552-3
  • 鬼頭清明『大和朝廷と東アジア』吉川弘文館、1994年5月1日。ISBN 4-642-07422-8
  • 山尾幸久「ヤマト王権」『日本古代史研究事典』東京堂出版、1995年9月。ISBN 4-490-10396-4
  • 白石, 太一郎『古墳とヤマト政権-古代国家はいかに形成されたか』文藝春秋<文春新書>、1999年4月。ISBN 4-16-660036-2 
  • 武光誠『古事記・日本書紀を知る事典』東京堂出版、1999年9月。ISBN 4-490-10526-6
  • 熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』講談社、2001年1月10日。ISBN 4-06-268903-0
  • 白石, 太一郎『日本の時代史1 倭国誕生』吉川弘文館、2002年6月。ISBN 4-642-00801-2 
  • 宝賀, 寿男卑弥呼の冢補論-祇園山古墳とその周辺-」『季刊・古代史の海』第26巻、「古代史の海」の会、2001年12月20日、62-96頁、ISSN 13415522NAID 40005104602 
  • 広瀬和雄『前方後円墳国家』角川書店<角川選書>、2003年7月10日。ISBN 4-04-703355-3
  • 山尾幸久「ヤマト王権の胎動」金関恕・森岡秀人・山尾ほか『古墳のはじまりを考える』学生社、2005年5月。ISBN 4-311-20280-6
  • 武光誠・菊池克美『古事記・日本書紀事典』東京堂出版、2006年9月。ISBN 4-490-10699-8
  • 武光誠『「古代日本」誕生の謎』PHP研究所 2006年 ISBN 4569665799
  • 石母田正「古代史概説」『岩波講座日本歴史』1、1962年。
  • 直木孝次郎「"やまと"の範囲について」『日本古文化論攷』吉川弘文館、1970年。
  • 鈴木靖民「増補・古代国家史研究の歩み」新人物往来社、1983年。
  • 網野善彦『日本社会の歴史(上)』岩波新書、1997年。ISBN 4-00-430500-4
  • 吉村武彦編『古代史の基礎知識』角川書店<角川選書>、2005年。ISBN 4-04-703373-1
  • 佐々木憲一編『関東の後期古墳群』六一書房、2007年。ISBN 978-4-947743-55-8
  • 石野博信『大和・纒向遺跡』学生社、2008年10月。ISBN 4-31-130494-3
  • 石野博信『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』新泉社、2008年12月。ISBN 4-7877-0931-3
  • 皇室事典編集委員会『皇室事典』角川学芸出版、2009年5月。ISBN 4-046-21963-7

外部リンク

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関連項目

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