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利用者:Quark Logo/sandbox徳川家康三方ヶ原戦役画像・修復用

徳川家康三方ヶ原戦役画像』(とくがわいえやすみかたがはらせんえきがぞう)は、徳川家康肖像画の一つ。徳川美術館所蔵。像主が顔を顰(しか)め憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれている。

日本国愛知県および名古屋市による文化財指定・登録はなされていない[1]


概要

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『三方ヶ原戦役画像』という偽伝

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徳川家康三方ヶ原戦役画像』(とくがわいえやすみかたがはらせんえきがぞう、以下『三方ヶ原戦役画像』[注釈 1])は、徳川家康肖像画の一つ。像主が顔をしかめて憔悴したように見える特異な表情をとることから、『顰像』(しかみぞう、『しかみ像』とも[3])の別名が付けられている[4][5]。長らく尾張藩主徳川家(以下、尾張家)に伝来したが、財団法人尾張徳川黎明会(現・公益財団法人徳川黎明会)が1935年昭和10年)に徳川美術館を開館して以降は、同館が所蔵する[6]。国・愛知県および名古屋市による文化財指定ないし登録はされていない[注釈 2]

『三方ヶ原戦役画像』は、1573年1月25日元亀3年12月22日)の三方ヶ原の戦いの直後、武田信玄に大敗した家康が己の惨めな姿を敢えて絵師に描かせたものとされ、敗戦を肝に銘じて慢心を自戒するべく家康が以後これを生涯座右に置いたという伝承を伴い[5]、最終的に江戸幕府を創建して天下人となった家康がそれに足る資質を備えていたことの証として、各メディアを通じて人口に膾炙してきた[2]。しかし、2015年平成27年)8月18日に発表された原史彦(徳川美術館学芸員)の調査により[2]、同像はそもそも、徳川治行(第9代尾張藩主・徳川宗睦の養嗣子)の正室・聖聡院[注釈 3]が、江戸時代後期の1780年安永9年)に紀州藩主徳川家(以下、紀州家)より尾張家へ嫁いだ際に持参した道具の一つであり[8]明治時代から昭和時代初期までの尾張家では「長篠の戦いにおける家康の肖像」として扱われていたのが[9][注釈 4]1936年(昭和11年)に当時の徳川美術館長・徳川義親侯爵(第19代尾張家当主)およびその周辺から出された無根拠な創作的口伝が発端となって三方ヶ原の戦いと結び付けられて語られるようになり、1972年(昭和47年)までに「敗戦を肝に銘ずるため」「慢心の自戒として生涯座右を離さなかった」などの情報が加わって現在知られる内容の伝承が形成されていったことが明らかにされた[11]後述)。

なお、原の調査に先行する研究も含めて、同像は元来、神格化された家康の礼拝像であるとする見解が示されている[12][13][14]


形象の意味

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本図は18世紀の終り頃に紀州徳川家から尾張徳川家に伝来し、当時は「家康の肖像画」とのみ伝えられていたが、明治期以降の尾張徳川家では「長篠戦役図」とされ、1910年(明治43年)に同家が開催した展覧会に出品されると、その特異な容貌・姿態から珍重されると同時に、「敗戦時の家康の肖像を、同家初代当主・徳川義直が、当時の窮状を忘れないように描かせた」との口伝が付され、本図が尾張徳川家から財団法人・尾張徳川黎明会が運営する徳川美術館に移された後、1936年(昭和11年)に開催された展覧会に出品された際に、美術館側により「三方ヶ原の戦い」での敗戦を「狩野探幽に描かせた」図、更に1972年(昭和47年)頃には「家康自身が描かせ」、「慢心の自戒として生涯座右を離さなかった」との情報が付与された。

この口伝は、「三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿」という説明が本図の異様な容貌・姿態を理解しやすくし、また「家康が、自身の慢心を戒めるために自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」という逸話が家康の人間性をよく表しているとされ、「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」という人生譚が現代の日本人の共感を呼んで歴史書や経済誌などでも取り上げられたことから、2016年現在の日本人の共感を呼び、広く周知されることになったとみられている。

本図を「三方ケ原戦役図」とする見方に対して、歴史学者の藤本正行は、『歴史読本スペシャル 特集 間違いだらけの「歴史常識」』のなかで、風俗史的観点からの考察により、合戦当時の作品ではなく後世に想像に基づいて描かれた図であり、戦役図ではなく礼拝図である可能性を指摘し[12]松島仁もこれを支持、本図は神格化された家康像であり、異様な姿態は半跏思惟であり、異様な表情は「忿怒」を表しているとした[15]

その後、徳川黎明会の学芸員である香山里絵は、明治期に本図が「三方ケ原」ではなく「長篠」の図とされていたことを指摘し[16]、徳川美術館学芸部長代理である原史彦は、本図を「三方ケ原」の図とする箱書き・目録等は確認できず、1936年の展覧会を紹介する新聞記事以前には遡れなかったことを報告、あわせて本図の由緒と口伝の発展過程を明らかにした[17]

本図以外にも徳川美術館には史料的根拠を欠いた伝承を伴う什宝がいくつか存在しており、その伝来や史料的根拠の確認は今後の課題とされている。また本図の同美術館における今後の取り扱いについて、原は論文への批判・批評を受けて検討する、としている。

画像情報

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『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)[4][18]。家康が、三方ヶ原での敗戦直後にこの像を自戒のため描かせたとする伝承は、昭和時代に創作・形成されたもので史料的根拠は存在しないが[11]、そこに含まれる教訓性が多くの日本人から共感・支持された結果、同伝承が広く定着するに至った[19]
装丁

2016年現在、絹本著色[20]掛軸装となっている[21]。本紙の寸法は、縦1尺2寸4分5厘(37.8センチメートル)・横7寸1分8厘(21.8センチメートル)[注釈 5][注釈 6]

表装は、上下を茶地絓[23]、中廻[24]を紺地唐草文金襴[25]、風袋[26]と一文字[27]を白茶地宝尽文金襴、軸を黒塗型とする[21][注釈 7]

箱書き

1993年に岡墨光堂[28]による裏打ち紙の貼り直しや本紙の欠失部分の補修が行なわれた際に、桐の太巻軸装となり、桐箱も新調された[21]

それ以前は、葵紋が描かれた溜塗[29]印籠蓋造の外箱(元外箱)と、「神君御影」と金泥書された黒塗[30]印籠蓋造の内箱(元内箱)に納められており[21]、元外箱の蓋の上には「家康公長篠戦役小具足着用之像」と記した貼紙が貼付されていた[31]

作者

本図には、等の文字情報や作者の落款はない[21]

製作年代;

2016年現在、徳川美術館では、描法などから江戸時代・17世紀頃の作とみなしている[2][注釈 8]

像主の描写

像主は、正面を向き、香炉台のような椅子に座り、左手を頬に当てて左脚を折り右脚の上に載せる半跏思惟のような姿勢をしている[12][21]。服装は、烏帽子を被り、茶地の鎧直垂を着し、両手に弓懸をして左腕のみに籠手を着け、両足に脛当てを付けて裸足藁草鞋を履き、腰に黒塗金覆輪[32]太刀を佩き、鮫皮柄の朱塗合口を差した格好で描かれており、戦場往来の姿のようにみえる[21]

像主が顔を顰(しか)め憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれている[4][18]

像主の顔貌について、原と藤本は、下唇を上前歯で噛んで口を「へ」の字に曲げた口元の描写を特異とし[21][12]、原は、眼窩上部や頬骨が強調されて眼が窪み、頬がこけたように見えることから、像主の特徴を捉えて描いたというよりは、特殊な状況下での姿を描こうとしたように感じられ、本図が「敗戦後のやつれた姿」と解釈されたことには一定の説得力がある[21]、としている。

由緒

本図は、幕末から明治初期にかけて記されたとされる尾張徳川家の蔵帳[33]『御清御長持入記』では、『東照宮尊影』(徳川家康の肖像画)とされており、尾張徳川家の養嗣子・徳川治行の正室で紀伊徳川家出身の従姫(よりひめ、追号・聖聡院)[注釈 9]が死没した翌1805年(文化2年)9月に、聖聡院の道具の中にあったものを、家康の遺品や関連する物品を納める「御清御長持(おきよめおんながもち)」[注釈 10]に(追加して)納めた、と記されていることから、従姫の嫁入り道具[35]の1つとして紀州家から尾張家に伝来したと考えられている[36]

口伝の発展

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「長篠戦役図」「狩野」

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1880年(明治13年)7月に作成された尾張徳川家の財産目録『御器物目録』では、本図について、『東照宮尊影』の名称に『長篠戦役陣中小具足着用之像』との副題が付されており、元外箱に付されていた「家康公長篠戦役小具足着用之像」の貼紙も、この目録作成までの什宝整理の過程で貼付されたと考えられている[37]。また同目録では、製作者について「画工不詳」との記載が、「狩野」と朱書きされていた[37]

副題は、目録中に『東照宮尊影』という名称の図が5点存在することから、各図を識別するために付記されたと考えられているが、「長篠」と題された理由は不明で[37]、原は、5点の家康の肖像画のうち、本図と『徳川家康長久手戦陣中画像』と伝えられている肖像画[注釈 11]には徳川16将が描かれておらず、またどちらも家康の武装姿を描いていたことから、両図を区別するために、現存する『長篠・長久手合戦図屏風』[38]になぞらえて、それぞれ「長篠」「長久手」の名称を割当てたのではないか、と推測し、命名に史料的根拠はないと考えられる[10]、としている。

その後、1893年(明治26年)に作成された世襲財産付属物の目録『御世襲財産付属物目録 甲の部』においても、本図は「徳川家康長篠戦役陣中小具足着用床机ニ倚ル密画彩色ノ像」と記され、「長篠戦役」の図とする説明が踏襲された[10]

「敗戦を」「敬公が」「苦窮を忘れざる為に」

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1910年(明治43年)4月に尾張徳川家は、名古屋市内で[注釈 12]、同家の初代・徳川義直(源敬公)に関する什宝の展覧会を開催した[41]

当時の雑誌『国華』に掲載されたこの展覧会の紹介記事の中に、

(…)家康公の肖像が3幅程ある、其の中に長篠敗戦の像を敬公が特に当時苦窮の状を忘れざる為に画かしめたものは普通の肖像と異って甚だ面白い。(…) — 雑誌『国華』1910年(明治43年)5月号(第240号)雑録[42]

との記述があり、尾張徳川家によって、展覧会に出品された本図に、敗戦の像を、敬公が当時苦窮の状を忘れざる為に描かせたとする説明が付与されていた[43][39][注釈 13]

1575年の長篠の戦いでは織田信長・徳川家康連合軍が武田勢を破っているが、原は「まだ歴史認識が広く一般化していない時代の所産」として「長篠敗戦」の図との説明が通用していたのではないか[39]、としている。

1931年(昭和6年)12月に尾張徳川家は徳川美術館開設のため財団法人尾張徳川黎明会を設立して同家の什宝を同財団に寄付したが[45]、これに先立って作成された同財団の「美術館所属什宝」の目録においても、本図は『家康公長篠戦役小具足着用ノ像』と記され、長篠合戦の画像とされていた[9][注釈 14]

「三方ヶ原で」「狩野探幽に」

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1935年(昭和10年)11月の徳川美術館開館後[47][46]、翌1936年(昭和11年)1月7日-26日にかけて開催された第3回展覧会で、本図は初日から半期間展示され、珍しい作品として同月6日付の新聞『新愛知』と『大阪毎日新聞』で展示風景や画像の写真とあわせて紹介された[48]

(…)従来門外不出とされてゐた家康公が三方ケ原で戦死を免れた難苦の状を狩野探幽が画いたもの(…) — 『新愛知』1936年1月6日付[49][48]
徳川家康公歯ぎしりの図(…)その中の逸品はここに掲げた『家康公歯ぎしりをするの図』……三方ケ原の敗戦で失意のどん底にある家康公を描いたもので、尾州藩祖義直公が父の艱苦を忘れぬため狩野探幽に描かせたもの — 『大阪毎日新聞』(名古屋版)1936年1月6日付[50][51]

両記事において、本図は三方ヶ原の戦いでの敗戦の図とされ、また製作者は狩野探幽として紹介されており、紹介内容が共通していることから、徳川美術館側から提供された情報に基づいて執筆された記事とみられている[50]

また同月14日付の『新愛知』に掲載された、尾張徳川家第19代当主・徳川義親侯爵や、同家御相談人阪本釤之助[52]枢密顧問官、同家家令鈴木信吉[53]堀田璋左右前名古屋市史編纂長らが出席した「祖先を語る座談会(12)」の「三方ヶ原の戦に儂しや痩せた 家康公の苦戦ぶり」と題した記事では、「長久手、小牧山の合戦の時の面白い話はないか」との新聞社側の質問に対して、徳川が「三方ヶ原の戦いでの敗戦の記念だというので、痩せ衰えて、とてもひどい顔をしている画像が遺っている。それは敗戦記念として子孫への戒めのために残したものだと思うが、よほど面白いものだ」[注釈 15]と語り、堀田が「ちょっと類例がありませぬね」「(…)それは後で家康が探幽に命じて画かせたのだといふことでありますが…(…)」と応じ、「尾張徳川黎明会調べ」として「(…)藩祖義直は父家康の九死に一生を得たる三方ヶ原難戦を銘記する為め、狩野探幽に命じて其敗戦当時の肖貌を画かしめたるものなり。」との解説が付され、鈴木が「(1936年)1月には名古屋にて(展覧会に)出ますが」とし、阪本が「これはよいことを聴きました」と受けていた[55][54]

原は、明治末(1910年)の時点で、本図に特異な容貌から「敗戦」の画像という情報が追加され、従来からあった「長篠合戦の図」という由来と整合がとれなくなったため、家康が歴史的大敗を喫したとされる「三方ヶ原合戦」の敗戦図とすることで「歯ぎしりの図」との歴史的整合性をとろうとした[11]、と解釈し、また美術館の開館にあたり、話題性を提供するために厳密な検討をせず、印象を先行させたとも考えられる、としている[11]

その後、1962年(昭和37年)に発行された蔵品図録『徳川美術館 別巻』あとがき[56]では、本図は『徳川家康三方ヶ原戦役小具足着用像』の名称で紹介されていた[57][注釈 16]

「家康自身が」「慢心を自戒して座右に置いた」

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1972年(昭和47年)に発行された『徳川美術館名品図録』[59]では、作品名称は『徳川家康三方ヶ原戦役画像』、解説文で「浜松城に逃げ帰った家康が、この敗戦を肝に銘ずるためその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられるのがこの画像である」として、美術館側が初めて家康自身が敗戦を肝に銘じるために描かせ、慢心を自戒して生涯座右に置いたとの情報が付加された[57]

原は、1972年時点までに、2016年現在世間に流布している本図の創作的口伝がほぼ形作られたと推測している[57][注釈 17]

なお、原は、「三方ヶ原の戦いに際して、家康が『慢心』から家臣の制止を押し切って籠城せずに出撃し、そのために大敗を喫した」との逸話は、『三河物語』や『朝野旧聞裒藁』に収載されている古記録のうち「落穂集」・「武徳大成記」・「官本三河記」などに類似の話があるものの、家康が出撃の決断を後悔・反省したとの記述はなく、むしろ武門の誉れとして肯定的に記されており、また敗戦直後に自己の姿を絵師に描かせたりしたとする逸話の記録はないこと、江戸時代後期に賞賛すべき家康の言動を諸記録から抜粋・収録してまとめられた『披沙揀金[注釈 18]にも、「家康が己を戒めるために惨めな姿を描かせた」という賞賛・喧伝されてしかるべき逸話が現れないことから、「家康自身が三方ヶ原敗戦後に自らの姿を描かせた」との逸話は、尾張家に限定されて伝わっていたのでなければ、逸話そのものが存在しなかったかのどちらかだと指摘している[63]

口伝の流布

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狩野探幽筆『徳川家康像』(大阪城天守閣所蔵)。束帯を着た家康は「東照大権現」として神格化された姿で描かれており、この様式の家康肖像が江戸時代を通じて多数製作された[64]。これと対照的に、『三方ヶ原戦役画像』は家康の「人間性」を描いた肖像として評価されてきた[64][65][66]

原は、本図の異様な容貌・姿態は、「三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿」という口伝から必然のものと理解され、また「家康が、自身の慢心を戒めるために自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」という逸話が家康の人間性をよく表しているとし、また「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」という人生譚が現代の日本人の共感を呼んで歴史書や経済誌などでも取り上げられたことから、本図にまつわる口伝は、2016年現在、現代人の共感を呼び、広く周知されている[67]、としている。

城郭考古学を専門とする千田嘉博・奈良大学長は、原の説について、しかみ像は、家康が神格化されたことを背景に、「様々な困難に耐えて最後に天下人になった」という後世のイメージを投影し(て描かれ)たものだと思われる、と評している[68]

2007年11月10日には、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝が、本図を題材として製作された『しかみ像』と題した石像を、「負け戦をステップにして次へ進んだ像」であり「像の意義を子供たちに話してほしい」として岡崎市へ寄贈し、これが同市内の岡崎公園に設置された[69]

2012年1月24日の朝日新聞の記事によれば、本図は伝承における家康と自身とを重ね合わせる者が多いサラリーマン層からの人気が高いとし、2010年(平成22年)以降、本図をあしらった衣料品や食品などを扱う協同組合・浜松卸商センターの代表は「しかみ像に、逆境から立ち上がるエネルギーを感じ取る人が多いのではないか」とコメントした、としている[70]

2015年2月20日には、浜松市が徳川家康公顕彰400年記念事業の一環として約250万円をかけて本図の等身大の立体像を製作、浜松市博物館にて公開し、同市の鈴木市長が「家康の原点ともいえるしかみ像をシンボルにしたい」と述べている[71][72]

また『三方ヶ原戦役画像』の伝承を肯定した上で同像についての評論を展開する言説は研究者の中からも出されていた[要出典]

美術史学者の木村重圭[73]は、家康を神格化して描いた「東照大権現像」と比較する形で本図を「人間家康を彷彿とさせる画像」と評した[64]

日本史学者の岡本良一 は、本図は、迫真性を備えたありのままの家康像であるとし、歴史研究も『三方ヶ原戦役画像』のように虚飾を排した家康の人間性を発掘するべきであると論じた[65]

同じく日本史学者の守屋毅は、本図を「威風堂々たる家康肖像群のなかで、なまな表情をうかがわせる数少ない作品の一つ」としている[66]

その他に、歴史学以外の分野から本図の容貌・姿態の描写の分析を試みた論説も見られる。[要検証]

表情分析を研究する心理学者の工藤力[74]は、横に引っ張られたような眉は恐怖を、大きく見開いた目は驚きを、口角が下がっているのは失望や無念といった家康の心情をそれぞれ表していると解釈し、足を組んで片頬に手を当てる格好は身体の震えを抑えるためではないかと推論している[75]

医師兼作家の篠田達明は、本図は、急性の驚愕反応に襲われた家康を描いており、顔の表情や四肢の肢位に心理的不安感が凝縮された類を見ない異様な全身像であると考察している[76]

「三方ケ原戦役図」説の否定

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蒙古襲来絵詞』(宮内庁所蔵)に描かれた小具足姿の安達盛宗。鎧直垂の左の肩と袖とを脱ぎ畳んで籠手を着ける。



藤本は、武具や服飾などの風俗史的観点からの考察により、本図の風俗描写は、家康が三方ヶ原の戦いの直後に描かせたにしては、合戦が行なわれた16世紀当時の武装との隔たりが大きいこと[注釈 19]を指摘し、江戸時代中期に、家の先祖を追慕・顕彰するため、大鎧・片籠手・貫(つらぬき)[注釈 20]といった古風・立派で現実離れした武装をした肖像画が盛んに製作されていたことから[79]、本図は家康没後に家康を追慕する者が描かせたものであり、仏像に多い半跏思惟の姿勢であることから、礼拝のために製作されたとも考えられる[12]、と指摘した。

『大織冠像』(ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)、室町時代16世紀)の作。藤原鎌足が半跏の姿で、息子の定恵不比等の上段に座る。

松島は、江戸幕府に仕えていた江戸狩野派絵師の活動から幕府による家康の神格化事業を研究・考察する観点から[57]、大織冠像(藤原鎌足像)や如意輪観音[注釈 21]が半跏の姿をとっていることを指摘し、本図はこれらの像と同じ系譜に家康を位置づけ、かつ東照大権現の軍神的性格をも加えた礼拝像であり、像主の特異な顔貌は「忿怒の表情を浮かべ」たもので、正面を向いて座る姿勢も礼拝像に相応しい表現である[80]、として本図は礼拝図であると主張した[注釈 22]

美術館関係者による由来の確認

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徳川黎明会総務部非常勤学芸員[82]の香山は、徳川美術館の設立の経緯について調べる過程で、上述の1910年に名古屋市内で開催された尾張徳川家の展覧会に関する雑誌『国華』の紹介記事中の「(…)家康公の肖像が3幅程ある、其の中に長篠敗戦の像を敬公が特に当時苦窮の状を忘れざる為に画かしめたものは普通の肖像と異って甚だ面白い。(…)」との記述について、記事の内容からこれを本図に関する記述と判断し、1910年時点で本図が「三方ヶ原敗戦」ではなく「長篠敗戦」の図とされていたことを指摘した[43]

香山によると、2014年当時、徳川美術館学芸部長代理だった原史彦は、香山からの照会に対し、本図が『三方ヶ原戦役画像』とされている根拠について「江戸末期-大正期の箱書(表書)によるが、三方ヶ原戦役の同様のエピソードに関する記述文献はなく、江戸時代の道具帳では『神君御肖像』と記されているのみで証左はとれない」と説明していた[83]

その後、2015年8月18日に徳川美術館で開かれた「徳川家康の肖像‐三方ヶ原戦役画像の謎」と題した夏期講座(講演会)において[2]、原は、本図の由緒を確認した結果、江戸時代には本図は「三方ヶ原」と結び付けられていなかった、と説明し[68]、同講座での発表内容をまとめた『徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎』[2]において、1993年までの元外箱の箱書きでは、本図は「長篠」の図とされていたこと、「三方ヶ原」の記述が確認できた最も古い文献は1936年の徳川美術館開館の際の新聞記事であり、それ以前については史料的根拠がないこと。元外箱の「長篠」との記載にも史料的根拠がなく、本図は18世紀末に紀伊徳川家から尾張徳川家に伝来したと考えられることから、尾張徳川家初代・義直が描かせた、という口伝も根拠が薄いと考えられること。など、上述の口伝の発展の経緯を指摘し、陣中の武装姿を描いたものであっても特定の合戦に結び付くものではなく、武神として崇敬するための礼拝像として描かれたと見なし得る、として、藤本および松島の見方[84][15]を支持した[85]

本図以外に根拠不明の口伝を伴う徳川美術館の収蔵品

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原は、『三方ヶ原戦役画像』以外にも、徳川美術館の所蔵品には史料的根拠を確認できない口伝が定着している作品がいくつかあることを指摘している[86]

徳川家康長久手戦陣中画像

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狩野安信筆『徳川家康長久手戦陣中画像』(徳川美術館所蔵)

原は、『徳川家康長久手戦陣中画像』についても「長久手戦」の命名には史料的根拠がないとしており[10]、同図の構図が同じく狩野安信による『楠公図』(二本松藩主丹羽家伝来品)のそれと類似している点を取り上げ、家康神格化の一環として楠木正成(楠公)に家康を相似させる意図が存在した可能性を指摘している[87]

青磁香炉銘千鳥

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「千鳥」と銘した青磁香炉[88]は、「もともと豊臣秀吉の所用で、伏見城の秀吉の寝所に石川五右衛門が侵入した際に、香炉の摘(つま)みの千鳥が鳴いたため、秀吉は助かり五右衛門は捕縛・処刑された」との伝承を伴っているが、もともとつまみから音が出る構造にはなっておらず、秀吉の所持品が尾張家に伝来したことを裏付ける史料的根拠がなく、また「千鳥」と銘した香炉は他にもいくつか存在している[86]

熊毛植黒糸威具足

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家康所用の甲冑「熊毛植黒糸威具足[89]は、1980年に開催された高島屋創業150年記念の展覧会のポスターなどで「この鎧を着けて出陣した家康を、秀吉は『関東の牛』と恐れた」と紹介されていたが、史料的な根拠はなかった[90][91]

徳川美術館の今後の対応

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徳川美術館は、創作的口伝の発信源でもあり、描法から作品の製作時期を江戸時代・17世紀頃の作品としながらも、「家康が描かせ、座右に置いた」との口伝に沿って、原本は別にあり、写本が分家である尾張徳川家に伝来したと解釈するなど、漠然と口伝に従った解釈をしてきた[2]

原は、今後の対応について、美術館の収蔵品全般について、蔵帳を基に、ある程度の伝来経緯と伝承の真偽性を把握する必要性を指摘し、本図については、史料的根拠がないとはいえ、長年にわたり継承され広く人口に膾炙した口伝を原の研究のみで変更・修正するのは難しいとし、位置付けの明確化や美術館における紹介のあり方は原の論文への批判・批評を経て後日検討したい、としている[注釈 23][19]

脚注

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注釈

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  1. ^ 後述の通り、同像を三方ヶ原の戦いに関連付けられる史料的根拠は存在しないが[2]、本記事では便宜上『三方ヶ原戦役画像』と呼ぶこととする。
  2. ^ 国指定文化財等データベース文化財ナビ愛知および名古屋市指定文化財等目録一覧の確認による。
  3. ^ 聖聡院(せいそういん、1757年11月24日宝暦7年10月13日) - 1804年9月1日文化元年7月27日[7])は、徳川宗将(第7代紀州藩主)の五女で名を従姫(よりひめ)という[3][8]。夫の治行が宗睦に先立ち死去したため御簾中(尾張藩主正室)にならず[8]、治行との間に生まれた長男の五郎太も早世した[7]。晩年は1802年享和2年)8月より湯治のため尾張に滞在し、2年後に同地にて数え48歳で死去する[7][8]
  4. ^ この扱い方にも、後年の「三方ヶ原の戦い」云々の伝承同様に史料的裏付けは存在しないと考えられる[10]
  5. ^ 徳川美術館の収蔵品台帳による。表装の寸法は、縦3尺5寸1分(106.5センチメートル)・横1尺5分5厘(32.0センチメートル)[21]。1880年(明治13年)7月に作成された尾張徳川家の財産目録『御器物目録』にも同様の記述があり、寸法や表装に関する記載の一致が同じ作品だと判断する根拠となっている[22]
  6. ^ 文化庁文化遺産オンラインでは、縦37.7 横21.8、としている[18]
  7. ^ 『御器物目録』にも同様の記述があり、寸法や表装に関する記載の一致が同じ作品だと判断する根拠となっている[22]
  8. ^ 文化庁文化遺産オンラインでは、桃山時代・16世紀の作、とされている[18]
  9. ^ 1757年11月24日宝暦7年10月13日) - 1804年9月1日文化元年7月27日[7]。紀伊徳川家第7代・徳川宗将五女[要出典][8]。1780年(安永9年)に、尾張徳川家第9代当主・徳川宗睦の養嗣子である治行に嫁いだが、治行は1793年に宗睦に先立ち死去したため尾張徳川家の当主とはならず[8]、治行との間に生まれた長男の五郎太も早逝した[7]1802年享和2年)8月より湯治のため尾張に[要検証]滞在し、2年後に同地にて数え48歳で死去[7][8]
  10. ^ 御清御長持は3棹の長持で、尾張家において最も重要な道具の一つとされ、藩政時代には名古屋城二之丸の北辺にあった不入火御土蔵に保管されていた[34]
  11. ^ 1813年(文化10年)に尾張藩の重臣・鈴木丹後守より献上され、「御清御長持」に加えられた[37]
  12. ^ 原は、香山の「徳川義親の美術館設立想起」(『金鯱叢書』第41巻)からの引用として、尾張徳川家大曽根邸で実施[39]、としているが、同書の中で香山は「名古屋開府300年」の祝賀行事の一環として開催されたことから、尾張徳川家の、大曽根本邸または名古屋市内の同家所縁の場所で開催されただろう[40]、と推測しており、場所を特定していない。
  13. ^ 原の下掲書に、「本図が初めて世の中に紹介されたと思われる什宝陳列において(…)この(1893年の)名称が用いられた(註13)。」とある[39]が、同書が出典としている香山の「徳川義親の美術館設立想起」(『金鯱叢書』第41巻)には該当する記述がない[44]
  14. ^ 原は「昭和10年(1935年)の徳川美術館開館直前まで、本図を三方ヶ原合戦に関連させる認識は存在していなかった」としている[46]が、上記の1930年までに作成された目録以後、1935年の徳川美術館開館までの間に「認識」が存在しなかったとする根拠には言及がない。
  15. ^ 「家康公が戦つたうちで一番痛い目に遇つたのは三方ケ原の合戦でありました。元亀三年三月甲斐の武田信玄との戦ひでありましたが、この時家康公は戦ひに破れて散々な目に遇つて今にも戦死しさうになつたことがあります。その時の敗戦の記念だといふので、まるで痩衰へて、とてもひどい顔をしている御画像が遺つております。それは敗戦記念として子孫への戒めのために残したものだと思ひますが、よほど面白いものであります。……」[50][54]
  16. ^ 画像の由緒については「尾州家(尾張家)先祖伝来」と記されている[58]
  17. ^ 原は同書で、高柳光寿 の『戦国戦記 1 三方原の戦 』[60]に本図の逸話が取り上げられていないことを、1958年時点で口伝が世間に流布していなかったことの傍証としている。
  18. ^ 林述斎1836年天保7年)から1837年(天保8年)にかけて編纂した家康の言行録[61][62]
  19. ^ 像主の烏帽子・鎧直垂・左腕のみの籠手(片籠手)姿は、弓矢による戦闘を重視した平安鎌倉時代の上級武士に見られる武装で、太刀・薙刀を用いた接近戦闘が増加した鎌倉時代末期から廃れはじめ、室町時代には両腕に籠手を着ける諸籠手の武装が定着し、片籠手は例外的になっていたことから、三方ヶ原の戦いが行なわれた元亀・天正頃には見られないはずであること[77]、鎧直垂を着て片籠手を指す場合、左肩を脱いで左袖を畳んでに挟み、下着の小袖の上から籠手を着けることになるが、細い籠手を鎧直垂の袖の上から指しているのは袖の生地がかさばるため現実には不可能なこと[78]、三方ヶ原の戦いは冬に行なわれた合戦であるのに、像主は素足に草鞋姿であり、家康ほどの武将が革足袋を履いていないのは不自然であること[12]
  20. ^ 毛皮の靴の一種。
  21. ^ 中世において聖徳太子の化身とされた。
  22. ^ 松島は、徳川将軍権力は伝統的権威である朝廷を相対化するにあたって皇室摂家が作り上げた権力構造を吸収・再編する必要に迫られ[13]、その一環として江戸狩野派の絵師が家康の生涯を描いた『東照宮縁起絵巻』や家康肖像を製作する際、聖徳太子や藤原鎌足を主題とした『聖徳太子絵伝』や『多武峰縁起絵巻』など過去の絵巻物や絵画から図様の形式を引用することで、それらから王法仏法相依論をはじめとする政治的思想や王権にまつわる物語軸を取り込み、王法と仏法とを統合した超越者・東照大権現たる家康による近世徳川日本の創建神話へ組み替えていくことを意図したと推論している[13][81]
  23. ^ 朝日新聞(大島)の記事では、原の調査発表後、徳川美術館は同像の扱いについて「(徳川)美術館の対応を踏まえて考えたい」と話した、としている[71]

出典

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参考文献

[編集]

書籍

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  • 堀内, 信 編集『南紀徳川史』 第2冊、南紀徳川史刊行会、1930年12月31日。 
  • 岡本, 良一「解説 家康の不人気」『日本史の人物像5 徳川家康』筑摩書房、1967年11月30日、265-275頁。ASIN B000JBKGCM 
  • 徳川美術館・徳川黎明会 編『徳川美術館名品図録』(改訂版)徳川美術館、1972年4月29日。全国書誌番号:21192685 
  • 守屋, 毅 著、日本文化の会 編『日本を創った人びと16 徳川家康 戦国乱世から三百年の泰平へ』平凡社、1978年7月10日。ASIN B000J8NYLA 
  • 清原, 康正「評伝・山岡荘八1 壮年の文学『徳川家康』」『山岡荘八全集1 徳川家康1』講談社、1981年2月26日、477-480頁。ASIN B000J80I0A 
  • 清原, 康正「評伝・山岡荘八33 家康ブーム」『山岡荘八全集22 新太平記3』講談社、1983年10月26日、417-420頁。ISBN 4-06-129182-3 
  • 木村, 重圭 著「狩野派と肖像画」、朝日新聞社文化企画局文化企画部 編『元禄–寛政 知られざる「御用絵師の世界」展』朝日新聞社、1998年、113-115頁。 
  • NHK取材班 編「徳川家康、大ピンチの処世術」『堂々日本史11』KTC中央出版、1998年1月16日、63-103頁。ISBN 978-4-877-58058-2 
  • 藤本, 正行『鎧をまとう人びと 合戦・甲冑・絵画の手びき』吉川弘文館、2000年3月10日。ISBN 978-4-642-07762-0 
  • 篠田, 達明「驚愕反応に襲われた家康」『新潮新書035 モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮社、2003年9月20日、67-73頁。ISBN 978-4-106-10035-2 
  • 松島, 仁「第2部 第2章 2 《聖徳太子絵伝》、《多武峯縁起絵巻》、そして《東照宮縁起絵巻》」『徳川将軍権力と狩野派絵画 徳川王権の樹立と王朝絵画の創生』ブリュッケ、2011年2月10日、75-81頁。ISBN 978-4-434-15331-0 

雑誌記事・論文

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  • 著者不明「雑録」『国華』第240号、国華社、1910年5月1日、311-312頁。 
  • 藤本, 正行「三方原敗戦の徳川家康像は家康が描かせたものではない」『歴史読本スペシャル 特集 間違いだらけの「歴史常識」』、新人物往来社、1984年2月13日、208頁。 
    『別冊歴史読本16号 間違いだらけの歴史常識』、新人物往来社、2008年8月14日、 145頁に再収録。
  • 香山, 里絵「徳川義親の美術館設立想起」(pdf)『金鯱叢書』第41巻、徳川美術館、2014年3月、1-29頁、ISSN 2188-75942016年10月3日閲覧 
  • 原, 史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」(pdf)『金鯱叢書』第43輯、公益財団法人徳川黎明会、2016年3月30日、1-21頁、ISSN 2188-75942016年8月17日閲覧 
  • 香山, 里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」(pdf)『金鯱叢書』第43巻、徳川美術館、2016年3月、103-131頁、ISSN 2188-75942016年10月3日閲覧 




『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)。家康が、三方ヶ原での敗戦直後にこの像を自戒のため描かせたとする伝承は、昭和時代に創作・形成されたもので史料的根拠は存在しないが[1]、そこに含まれる教訓性が多くの日本人から共感・支持された結果、同伝承が広く定着するに至った[2]


概要

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外観・付属品

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『三方ヶ原戦役画像』は絹本着色の掛軸装で、本紙は縦1尺2寸4分5厘(37.8センチメートル)・横7寸1分8厘(21.8センチメートル)、表装は縦3尺5寸1分(106.5センチメートル)・横1尺5分5厘(32.0センチメートル)の寸法である[3]。表装は上下を茶地絓、中廻を紺地唐草文金襴、風袋と一文字を白茶地宝尽文金襴、軸を黒塗撥型とする[3]落款はない[3][注釈 1]。製作年代は伝承通りならば1573年となるが、所蔵する徳川美術館では描法などから17世紀頃の作としている[6]

同像を収める箱として、葵紋が描かれた溜塗印籠蓋造の外箱(元外箱)と、「神君御影」と金泥書された黒塗印籠蓋造の内箱(元内箱)とが付属するが[3]1993年(平成5年)に裏打ち紙の貼り直しや欠失部分の補填などの修理が行われてからは、新調された桐箱が用いられている[3]

像主の描写

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像主は正面を向き椅子に座り、左手を頬に当て、左足を折り右足に乗せる半跏思惟の姿勢で[7][3]烏帽子を被り茶地の鎧直垂を着し、両手に弓懸を、左腕に籠手を、両足に臑当を付けて裸足草鞋を履き、腰に黒塗金覆輪太刀を佩き鮫革柄の朱塗合口を差した格好で描かれる[3]。とりわけ像主の顔貌は特異で、下唇を上前歯で噛んで口を「へ」の字に曲げた様子や[7]、眼窩や頬骨が強調されて目が窪み頬がこけたように見えることから、特殊な状況下での姿を描いたかのような観がある[3]

研究史

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伝承に依拠した言説

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狩野探幽筆『徳川家康像』(大阪城天守閣所蔵)。束帯を着た家康は「東照大権現」として神格化された姿で描かれており、この様式の家康肖像が江戸時代を通じて多数製作された[8]。これと対照的に、『三方ヶ原戦役画像』は家康の「人間性」を描いた肖像として評価されてきた[8][9][10]

原による調査が発表される前は、『三方ヶ原戦役画像』の伝承を肯定した上で同像についての評論を展開する言説が研究者の中からも出されていた。例えば美術史学者の木村重圭[11]は、家康を神格化して描いた「東照大権現像」と比較する形で同像を「人間家康を彷彿とさせる画像」と評しており[8]、日本史学者では、岡本良一が同像は迫真性を備えたありのままの家康像であると述べ、歴史研究も『三方ヶ原戦役画像』のように虚飾を排した家康の人間性を発掘するべきであると論じ[9]、また守屋毅が「威風堂々たる家康肖像群のなかで、なまな表情をうかがわせる数少ない作品の一つ」として同像を紹介している[10]。その他には、表情分析を研究する心理学者の工藤力[12]が、横に引っ張られたような眉は恐怖を、大きく見開いた目は驚きを、口角が下がっているのは失望や無念といった家康の心情をそれぞれ表していると解釈し[13]、足を組んで片頬に手を当てる格好は身体の震えを抑えるためではないかと推論したり[14]、医師兼作家の篠田達明が、同像は急性の驚愕反応に襲われた家康を描いており、顔の表情や四肢の肢位に心理的不安感が凝縮された類を見ない異様な全身像であると考察したりするなど、歴史学以外の分野から同像の描写の分析を試みた論説も見られる[15]

藤本正行説

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蒙古襲来絵詞』(宮内庁所蔵)に描かれた小具足姿の安達盛宗。鎧直垂の左の肩と袖とを脱ぎ畳んで籠手を着ける。

『三方ヶ原戦役画像』に対して最初に批判的検討を行った藤本正行は[3]、像主の烏帽子・鎧直垂・左腕のみの籠手姿[注釈 2]は元亀・天正頃には絶対に見られない「超古典的な武装」[注釈 3]であること、細い籠手を鎧直垂の袖の上から指しているのは袖の生地がかさばるため現実には不可能なこと[注釈 4]、家康ほどの武将ならば冬に行われた合戦にて革足袋を履いたはずなのに、像主が素足に草鞋というのは不自然であることといった[7]、武具や服飾などの風俗史的観点から諸問題を列挙し、伝承通り家康が敗戦直後に描かせたならば入念に風俗を考証し、その日の悲惨な姿の再現に努めただろうが、風俗描写は戦国時代当時のそれとあまりに隔たり、三方ヶ原での実際の家康の武装とかけ離れているとせざるを得ないと批判した上で[7]、同像は家康没後に彼を追慕する者が描かせたもので、仏像に多い半跏思惟の姿勢であることから礼拝のために製作されたとも考えられると結論付ける[7]

松島仁説

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『大織冠像』(ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)、室町時代16世紀)の作。藤原鎌足が半跏の姿で、息子の定恵不比等の上段に座る。

風俗史的観点から批判を試みた藤本とは別に、江戸幕府に仕えていた江戸狩野派絵師の活動から幕府による家康の神格化事業を研究・考察する松島仁は[19]、大織冠像(藤原鎌足像)や如意輪観音像(中世において聖徳太子の化身とされた)が半跏の姿をとることを指摘した上で[20]、『三方ヶ原戦役画像』は如意輪観音像や鎌足画像の系譜に家康を位置づけ、かつ東照大権現の軍神的性格をも加えた礼拝像と考えられると解釈しており[21]、像主の特異な顔貌については「忿怒の表情を浮かべ」たもので、正面を向いて座る姿勢も礼拝像としてふさわしい表現であるとの見解を示している[21]。なお松島は、徳川将軍権力は伝統的権威である朝廷を相対化するにあたって皇室摂家が作り上げた権力構造を吸収・再編する必要に迫られ[21]、その一環として江戸狩野派の絵師が家康の生涯を描いた『東照宮縁起絵巻』や家康肖像を製作する際、聖徳太子や藤原鎌足を主題とした『聖徳太子絵伝』や『多武峰縁起絵巻』など過去の絵巻物や絵画から図様の形式を引用することで、それらから王法仏法相依論をはじめとする政治的思想や王権にまつわる物語軸を取り込み、王法と仏法とを統合した超越者・東照大権現たる家康による近世徳川日本の創建神話へ組み替えていくことを意図したと推論している[21][22]

原史彦による調査

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伝承は文献史料に見えず

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原史彦は、『三河物語』や『落穂集』・『武徳大成記』・『官本三河記』といった諸文献が、三方ヶ原の戦いのくだりで家康が一部家臣の反対を押し切り武田軍との対戦に踏み切ったと記述していることについては、それを慢心による決断とみる解釈は成り立ち得るが、家康が敗戦後にそのことを後悔・反省したり合戦直後に自己の姿を絵師に描かせたりしたとする話はいずれも見られず、むしろ籠城より出撃を選んだことを武門の栄誉として肯定的に記す論調があることや[23]、家康の神格化が進んだ江戸時代後期に成立した『披沙揀金』[注釈 5]にも、家康が己を戒めるために惨めな姿を留め置いたという賞賛・喧伝されてしかるべき内容の話が現れないことを指摘し[25]、同伝承は尾張家に限定されて伝わっていたか、それとも当時存在していなかったかであり、記録されていたとしても広く知られていたとは考えられないとした上で[26]、尾張家および徳川美術館の記録を手掛かりとして同像の由緒や伝承の出所を探求する[6][26]。しかしその結果、1936年に徳川義親あるいは当時の同館職員が厳密な史料調査を経ずに、印象先行に基づく主観的判断で『三方ヶ原戦役画像』を定めたことよりも前に伝承の初出を遡れないことが判明したのである[27]後述)。

画像は紀州家より伝来

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そもそも『三方ヶ原戦役画像』は、尾張家に伝来した宝物類のうち「御清御長持」[注釈 6]に入れられ伝えられてきた[29][28]。原は『三方ヶ原戦役画像』と徳川美術館が所蔵する記録類を照合したところ、幕末から明治初期に記されたとみられる蔵帳の『御清御長持入記』の記録上では、同像が第一の長持に納められて『東照宮尊影』と呼ばれていたこと、しかも当初は、徳川宗睦の養嗣子・治行の正室である聖聡院[注釈 7]が、婚礼時に実家の紀州家より尾張家へ持参した道具の一つで、彼女が没した翌年の1805年(文化2年)9月に「御清御長持」へ入れられたことを突き止めた[30]。つまり、『三方ヶ原戦役画像』は古くより尾張家にあったわけではなく、同家においては紀州家より持ち込まれた18世紀終わりまで認識されることがなかったということになる[30]

元来は家康の礼拝像

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狩野安信筆『徳川家康長久手戦陣中画像』(徳川美術館所蔵)[注釈 8]。原史彦は、この像の構図が同じく狩野安信による『楠公図』(二本松藩主丹羽家伝来品)のそれと類似している点を取り上げ、家康神格化の一環として楠木正成(楠公)に家康を相似させる意図も存在した可能性を指摘している[27]

『三方ヶ原戦役画像』の元来の性格については、藤本正行松島仁の各論が、研究の観点は異なるもののいずれも礼拝像であるという点に落ち着いており、原史彦もそれらに沿う形で論を整理・展開している[19]。同像の元内箱に「神君御影」と金泥書されていることと、「御清御長持」に入れられ保管されてきたことからして、江戸時代当時の尾張家では聖聡院が持参して以降、また遡って彼女が同家に嫁ぐ以前、紀州家にても同像が家康の肖像と認識されていたことが推測される[19]。江戸時代に製作された家康の肖像は、どのような姿にせよ彼の神格化が意図にあることは明らかであり、陣中の武装姿を描いたものであっても特定の合戦に結び付くものではなく、武神として崇敬するための礼拝像として描かれたと見なし得る[27]。その場合、藤本が指摘する「超古典的な武装」で描かれても、武神としての礼拝像であれば風俗考証上の誤りは問題とならず、むしろ理想像を描くことで神性をより高めることができると解せられる[31]

変化する画像への認識

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前述の通り、古くより尾張家に伝わっていたわけでもなく、幕末までは単なる『東照宮尊影』とみなされていた聖聡院持参の肖像についての認識は明治以降に「長篠の戦いにおける家康の肖像」へと変化し[32]、更に昭和時代前期には『三方ヶ原戦役画像』とする解釈や伝承を生むに至った[1]

『長篠戦役陣中小具足着用之像』

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「御清御長持」は明治維新期の1872年(明治5年)に名古屋東照宮へ一時移されたが、廃藩置県などに伴う財産処分を経た尾張家の道具として引き続き扱われることとなり、1880年(明治13年)7月に『御清御長持入記』に代わる財産目録として新規に『御器物目録』が作成されたが[30]、同目録において前述の『東照宮尊影』(即ち『三方ヶ原戦役画像』)には『長篠戦役陣中小具足着用之像』と副題が付けられていたことが分かった[4][注釈 9]。当時、同像を含めて『東照宮尊影』が5点存在したことから識別のためであったと考えられるが、現存する長篠・長久手合戦図屏風に着想してなぞらえた程度の、史料的根拠を伴わない命名であったと推測される[33]。その後作成された目録においても、品名は微妙に変化するものの同像を「長篠の戦いの時の肖像」であるとする説明は踏襲され、1910年(明治43年)4月に開かれた名古屋開府三百年祭にて、尾張家大曽根別邸(現・徳川園)を会場として什宝陳列がなされた際にも、同像は「徳川家康長篠戦役陣中小具足着用床机ニ倚ル密画彩色ノ像」の名称で出陳されている[34]。加えて、同陳列を紹介した『国華』第240号の「雑録」上では「……家康公の肖像が三幅程ある、其の中に長篠敗戦の像を敬公が特に当時苦窮の状を忘れざる為に画かしめたものは普通の肖像と異って甚だ面白い。……」[34][35][注釈 10]と触れられており、初代尾張藩主の徳川義直(敬公)が父・家康の「苦窮」を忘れぬために描かせたという情報が新たに付け加えられている[34]。その後、徳川美術館の開館に先立つ準備として1930年(昭和5年)までに実施された同館所蔵品の評価を記録した『第一部 美術館所属什宝評価調 三冊ノ内』でも、同像は元外箱貼紙に書かれたのと同様『家康公長篠戦役小具足着用ノ像』とされて1500円の評価額が付けられており、聖聡院持参の『東照宮尊影』に対する認識は1935年の徳川美術館開館まで変化しなかった[32]

『三方ヶ原戦役画像』へ

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前述の通り、聖聡院が尾張家に持ち込んだ『東照宮尊影』は、明治時代から昭和時代初期までは長篠の戦いの時の肖像であるとされてきたが、徳川美術館が開館した翌年の1936年1月7日から26日までの間、前年開催された2回の展覧会に続いて第3回展覧会を催した際、同像は会場にて半期展示され、かつ各新聞の紙面において初めて三方ヶ原の戦いと関連付けられて紹介された[5]。1936年1月6日付の『新愛知』では「家康公が三方ケ原で戦死を免れた難苦の状を狩野探幽が画いたもの」[5][36]、同日付の『大阪毎日新聞』(名古屋版)では「三方ケ原の敗戦で失意のどん底にある家康公を描いたもので、尾州藩祖義直公が父の艱苦を忘れぬため狩野探幽に描かせたもの」[37][38]と報じられており[注釈 1]、同年1月14日付の『新愛知』に掲載された座談会の記事にて、会に出席した徳川義親館長より「三方ヶ原の戦いの時の肖像」であると語られたことが記されている[39][40][注釈 11]。しかし、徳川美術館には同像を三方ヶ原の戦いに結び付ける史料情報は伝存しておらず、長篠から三方ヶ原への解釈変更は、徳川義親または同館職員による勇み足な発言、もしくは明治末期に付加された「敗戦」の肖像という情報との整合性を持たせるために三方ヶ原が持ち出された、はたまた開館間もない同館が話題性の提供や宣伝のために史料検討より印象を先行させ、サービス精神に基づきキャッチコピー的感覚で発信したことが推測され[29]、結局『三方ヶ原戦役画像』の伝承は史料的根拠を持たない、極めて新しい創作的口伝に過ぎないといえる[1]。原はこのことについて、当時の世相としては厳密な論文でない限りの範囲において、史料的裏付けがなくとも伝承の創作が許容され、また悪意のないままに行われる風潮があったのではないかと推定している[41]。その後、同像は1972年に発行された『徳川美術館名品図録』にて作品名称が『徳川家康三方ヶ原戦役画像』に定まり[19]、「浜松城に逃げ帰った家康が、この敗戦を肝に銘ずるためその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられる」と解説され[42]、この時点までに、同像は義直ではなく家康本人が描かせたことになり、生涯座右を離さなかったとする情報も加えられ、現在広く知られる伝承の内容が完成したとみられる[19][注釈 12]

伝承の拡散・定着

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『三方ヶ原戦役画像』にまつわる伝承が無根拠ながらも広まった主因は、慢心を戒めて惨めな姿をわざと形に残し、己の行いを真剣に反省して次は成功を収めるという、その賞賛すべき教訓性や人生譚が現代日本人の共感や支持を集めたことにあり[2][6][注釈 13]、徳川美術館による説明の他、テレビドラマや漫画、学術書、経済誌などにも取り上げられて紹介された結果、同伝承は80年近くにわたり人口に膾炙するに至った[2][29]。これについて千田嘉博は、家康が「様々な困難に耐えて耐えて最後に天下人になったという後世のイメージが投影されたものだと思われ」ると評している[29][注釈 14]。今後は同像について、徳川美術館による公式見解の変更や位置付けの更なる明確化が課題となるが[2][注釈 15]、原は広く定着した伝承を修正するのは困難であるとの見解を示している[2]

なお、2007年(平成19年)には徳川恒孝(第18代徳川宗家当主)が、『三方ヶ原戦役画像』中の家康を彫り表し、『しかみ像』と題された石像を岡崎市へ寄贈し、これが同市内の岡崎公園に設置され[51]、2015年2月には、浜松市が徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として約250万円をかけて『三方ヶ原戦役画像』の等身大立体像を製作し、浜松市博物館にて公開するなど[52][53][注釈 16]21世紀初めには徳川将軍家の末裔や家康所縁の自治体までもが『三方ヶ原戦役画像』の伝承を受容する事態に発展している。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 1880年7月に作成された『御器物目録』上では「画工不詳」と記されたそばに「狩野」と朱書が入っており[4]、1936年には狩野探幽の作であるとして各新聞に紹介されている[5]
  2. ^ 左腕のみに籠手を指す片籠手の武装は、弓矢による戦闘を重視した平安鎌倉時代の上級武士がもっぱら行っていたが、片籠手は太刀・薙刀を用いた接近戦闘が増加した鎌倉時代末期から廃れはじめ、代わって室町時代には両腕に籠手を着ける諸籠手の武装が定着し、片籠手は例外的になった[16]
  3. ^ 藤本は、戦場で実際に甲冑を着用した者が絶えた江戸時代中期より、家の先祖を追慕・顕彰するため、大鎧・片籠手・貫(つらぬき、毛皮の靴の一種)といった古風・立派で現実離れした絵空事の武装を、身分の高さの表現として想像を交えながら描写した肖像が盛んに製作されたことを指摘している[17]
  4. ^ 鎧直垂を着て片籠手を指す場合、左肩を脱いで左袖を畳んでに挟み、下着の小袖の上から籠手を着けていた[18]
  5. ^ 『披沙揀金』(ひさかんきん)は、林述斎1836年天保7年)から1837年(天保8年)にかけて編纂した家康の言行録である[23][24]
  6. ^ 「御清御長持」(おきよめおんながもち)は家康の遺品や関連する品々を納めた3棹の長持で、尾張家においては最も重要な道具の一つとされ、藩政時代には名古屋城二之丸の北辺にあった土蔵にて保管されていた[28]
  7. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「yorihime」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  8. ^ 『徳川家康長久手戦陣中画像』は、1813年(文化10年)に尾張藩の重臣・鈴木丹後守より献上され、「御清御長持」へ加えられた家康の肖像であるが[4]小牧・長久手の戦いとの関連を窺わせるかのような画像名は1880年の『御器物目録』において、『三方ヶ原戦役画像』が『長篠戦役陣中小具足着用之像』と名付けられたのと同様、識別のため特に史料的根拠もなく命名されたと考えられる[27]
  9. ^ 元外箱上面にも「家康公長篠戦役小具足着用之像」と書かれた貼紙が残っている[4]
  10. ^ 長篠の戦いは織田・徳川連合軍が武田軍に大勝して終わっており、家康にとっては敗戦ではないが、記事の書かれた当時はまだ歴史認識が普及していなかったことを窺わせる[34]
  11. ^ 座談会席上の徳川は、同像について次のように語っている[39]
    「家康公が戦つたうちで一番痛い目に遇つたのは三方ケ原の合戦でありました。元亀三年三月甲斐の武田信玄との戦ひでありましたが、この時家康公は戦ひに破れて散々な目に遇つて今にも戦死しさうになつたことがあります。その時の敗戦の記念だといふので、まるで痩衰へて、とてもひどい顔をしている御画像が遺つております。それは敗戦記念として子孫への戒めのために残したものだと思ひますが、よほど面白いものであります。……」[40]
  12. ^ 同像は、1962年(昭和37年)に発行された図録『徳川美術館』では『徳川家康三方ヶ原戦役小具足着用像』の名称で紹介されており、画像の由緒についても別巻の解説では「尾州家(尾張家)先祖伝来」と触れられるのみで前述の情報は記載されていない[43]。同像の別名を『顰像』とする説明も1972年の図録が初出である[42]
  13. ^ 具体的には、同伝承における家康と自身とを重ね合わせる者が多いサラリーマン層からの人気が高いとされ[44]、同像をあしらった衣料品や食品などを2010年(平成22年)より扱う協同組合・浜松卸商センターの代表は「しかみ像に、逆境から立ち上がるエネルギーを感じ取る人が多いのではないか」とコメントしている[44]
  14. ^ 昭和30年代には、山岡荘八の長編小説『徳川家康』にて描かれた家康の合理主義や経国の理念といった処世哲学が、同時期の経営学ブームに触れていた経営者やサラリーマンを中心に幅広い読者から注目・支持され、同書が戦後最大のベストセラーとなって「家康ブーム」を引き起こしており[45]、同時に家康に対してもそれまで根強かった「狸親父」から「建設者」へとイメージの転換が進み、高く評価されるようになっていった[46]
  15. ^ 『三方ヶ原戦役画像』以外にも、同館の所蔵品には史料的根拠を確認できない伝承が定着したものがいくつかある[47]。例えば「千鳥」という銘のある青磁香炉[48]豊臣秀吉の所用(伏見城の秀吉の寝所に侵入した石川五右衛門が、香炉の摘みの千鳥に鳴かれて捕縛・処刑されたという伝来を持つ)とする見解は考証に堪えず[47]、家康所用と伝わる熊毛植黒糸威具足[49]についても、同具足を着用した家康を見た秀吉が形容して言ったとする「関東の牛」[50]もその記録的裏付けはなく[41]、前述の当時許容された風潮により生み出された、具足の外観の印象に基づく標語であると推測される[2]
  16. ^ 原の調査発表後、同館は同像の扱いについて「(徳川)美術館の対応を踏まえて考えたい」と話している[52]

出典

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  1. ^ a b c 原 2016, pp. 15–16.
  2. ^ a b c d e f 原 2016, p. 20.
  3. ^ a b c d e f g h i 原 2016, p. 3.
  4. ^ a b c d 原 2016, p. 10.
  5. ^ a b c 原 2016, pp. 12–13.
  6. ^ a b c 原 2016, p. 2.
  7. ^ a b c d e 藤本 1984, p. 208.
  8. ^ a b c 木村 1998, p. 114.
  9. ^ a b 岡本 1967, pp. 274–275.
  10. ^ a b 守屋 1978, p. 21.
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  12. ^ 工藤 力 | 研究者情報 | J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター、2016年9月18日閲覧。
  13. ^ NHK取材班 1998, p. 68.
  14. ^ NHK取材班 1998, p. 70.
  15. ^ 篠田 2003, p. 73.
  16. ^ 藤本 2000, pp. 84–87.
  17. ^ 藤本 2000, pp. 255–259.
  18. ^ 藤本 2000, p. 127.
  19. ^ a b c d e 原 2016, p. 16.
  20. ^ 松島 2011, p. 79.
  21. ^ a b c d 松島 2011, p. 81.
  22. ^ 原 2016, pp. 16–17.
  23. ^ a b 原 2016, p. 6.
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  27. ^ a b c d 原 2016, p. 18.
  28. ^ a b 原 2016, p. 8.
  29. ^ a b c d 岡本 2015.
  30. ^ a b c 原 2016, p. 9.
  31. ^ 原 2016, p. 17.
  32. ^ a b 原 2016, pp. 11–12.
  33. ^ 原 2016, pp. 10–11.
  34. ^ a b c d 原 2016, p. 11.
  35. ^ 著者不明 1910, p. 311.
  36. ^ 新愛知 1936a, p. 5.
  37. ^ 原 2016, p. 13.
  38. ^ 大阪毎日新聞 1936, p. 11.
  39. ^ a b 原 2016, pp. 13–15.
  40. ^ a b 新愛知 1936b, p. 2.
  41. ^ a b 原 2016, pp. 19–20.
  42. ^ a b 徳川美術館・徳川黎明会 1972, p. 201.
  43. ^ 徳川美術館図録刊行会 1962.
  44. ^ a b 朝日新聞 2012.
  45. ^ 清原 1983, pp. 419–420.
  46. ^ 清原 1981, p. 477.
  47. ^ a b 原 2016, p. 19.
  48. ^ 青磁香炉 銘 千鳥 - 文化遺産オンライン文化庁)、2016年8月17日閲覧。
  49. ^ 熊毛植黒糸威具足 - 文化遺産オンライン文化庁)、2016年8月17日閲覧。
  50. ^ 徳川美術館・徳川黎明会 1972, p. 235.
  51. ^ 東海愛知新聞 2007.
  52. ^ a b 大島 2016.
  53. ^ 静岡新聞 2015.

参考文献など

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書籍
  • 堀内, 信 編集『南紀徳川史』 第2冊、南紀徳川史刊行会、1930年12月31日。 
  • 徳川美術館図録刊行会 編『徳川美術館』東京中日新聞出版部、1962年9月30日。 
  • 岡本, 良一「解説 家康の不人気」『日本史の人物像5 徳川家康』筑摩書房、1967年11月30日、265-275頁。ASIN B000JBKGCM 
  • 徳川美術館・徳川黎明会 編『徳川美術館名品図録』(改訂版)徳川美術館、1972年4月29日。 
  • 守屋, 毅 著、日本文化の会 編『日本を創った人びと16 徳川家康 戦国乱世から三百年の泰平へ』平凡社、1978年7月10日。ASIN B000J8NYLA 
  • 清原, 康正「評伝・山岡荘八1 壮年の文学『徳川家康』」『山岡荘八全集1 徳川家康1』講談社、1981年2月26日、477-480頁。ASIN B000J80I0A 
  • 清原, 康正「評伝・山岡荘八33 家康ブーム」『山岡荘八全集22 新太平記3』講談社、1983年10月26日、417-420頁。ISBN 4-06-129182-3 
  • 木村, 重圭 著「狩野派と肖像画」、朝日新聞社文化企画局文化企画部 編『元禄–寛政 知られざる「御用絵師の世界」展』朝日新聞社、1998年、113-115頁。 
  • NHK取材班 編「徳川家康、大ピンチの処世術」『堂々日本史11』KTC中央出版、1998年1月16日、63-103頁。ISBN 978-4-877-58058-2 
  • 藤本, 正行『鎧をまとう人びと 合戦・甲冑・絵画の手びき』吉川弘文館、2000年3月10日。ISBN 978-4-642-07762-0 
  • 篠田, 達明「驚愕反応に襲われた家康」『新潮新書035 モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮社、2003年9月20日、67-73頁。ISBN 978-4-106-10035-2 
  • 松島, 仁「第2部 第2章 2 《聖徳太子絵伝》、《多武峯縁起絵巻》、そして《東照宮縁起絵巻》」『徳川将軍権力と狩野派絵画 徳川王権の樹立と王朝絵画の創生』ブリュッケ、2011年2月10日、75-81頁。ISBN 978-4-434-15331-0 
新聞記事
雑誌記事
  • 著者不明「雑録」『国華』第240号、国華社、1910年5月1日、311-312頁。 
  • 藤本, 正行「三方原敗戦の徳川家康像は家康が描かせたものではない」『歴史読本スペシャル 特集 間違いだらけの「歴史常識」』、新人物往来社、1984年2月13日、208頁。 
    『別冊歴史読本16号 間違いだらけの歴史常識』、新人物往来社、2008年8月14日、 145頁に再収録。
  • 原, 史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」(pdf)『金鯱叢書』第43輯、公益財団法人徳川黎明会、2016年3月30日、1-21頁、ISSN 2188-75942016年8月17日閲覧 
    原が、2015年8月18日に徳川美術館で実施した夏期講座「徳川家康」中にて「徳川家康の肖像–三方ヶ原戦役画像の謎–」として口頭発表した内容を論文化したもの。
ウェブサイト