利用者:1993oct5/sandbox
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ガヴアナー | |
---|---|
品種 | サラブレッド[1] |
性別 | 牡[2] |
毛色 | 黒鹿毛[2] |
生誕 | 1932年3月9日[2] |
死没 | 1935年5月28日[3] |
父 | シアンモア[3] |
母 | アストラル[3] |
母の父 | チヤペルブラムプトン[3] |
生国 |
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生産者 | 小岩井農場[3] |
馬主 | 高橋錬逸[注 1][2] |
調教師 | 布施季三(福島)[2] |
厩務員 | 茅島高平[3] |
競走成績 | |
生涯成績 | 3戦3勝[3] |
獲得賞金 | 2万8230円[3] |
勝ち鞍 | 東京優駿大競走(1935)[3] |
[[File:Governor1935color.jpg|300px ガヴアナー(ガヴァナー、1932年3月9日[2] - 1935年5月28日[3])は1930年代半ばに活躍した日本の競走馬である。1935年東京優駿大競走(日本ダービー)を無敗のまま制するも、その約1か月後に調教中の事故が原因で安楽死となった。
全兄に1933年東京優駿大競走の優勝馬カブトヤマ[5][6]、全弟に1940年帝室御賞典(秋)の優勝馬ロツキーモアー[7][8]がいる。
経歴[編集]
出生[編集]
ガヴアナーの父であるシアンモア(Shian Mor)は、小岩井農場が英国の馬主から1万600ポンドで購入した種牡馬であった[注 2][9]。シアンモアは、1928年に牝馬のフリツパンシーと共に日本に輸入され、同年から小岩井農場で種牡馬として供用された[10]。
母アストラルは、競走馬時代に1927年の帝室御賞典を制した牝馬であった[11][12]。アストラルは下総御料牧場産であったが、競走引退後、小岩井農場が産駒改良のために購入し、同地で繁殖牝馬として繋養された[13][14]。シアンモアとアストラルの配合の結果、1930年には第九シアンモアが誕生、これは後にダービー馬となるカブトヤマであった[10][12]。
そして1932年、前年の不受胎を経て、アストラルは同じくシアンモアの仔を出産した[10][12]。この馬には、第拾六シアンモアと名付けられ、これが後のガヴアナーであった[10]。
デビューまで[編集]
ガヴアナーは、1934年8月に小岩井農場で行われた競市に出され、2万9660円で小岩井東山農事[15]の高橋錬逸に落札された[14]。
この競市には、調教師の尾形景造も参加しており、尾形もガヴアナーに目を付けていた[16]。高橋は良い馬をとるために、尾形が最も高額を提示した馬を競り落とすよう、同行した布施季三調教師に厳命していた[3][17]。セリが始まると、尾形はガヴアナーに熱を入れ、同馬の価格は吊り上がっていったが、高橋は、あまりの高額に入札を渋る布施を励まして、最後には尾形より上の値段を付けて同馬を落札することに成功した[16][17]。
その後、ガヴアナーは布施の元に預託された[18]。布施は、小岩井農場を経営していた岩崎家お抱えの乗馬クラブ教師だった経歴もあり、小岩井関係の馬をよく管理調教していたが、ガヴアナーもその一頭であった[18][19]。
競走馬時代[編集]
[[ファイル:GovernorTokyoYusyun1935.jpg|サムネイル|400px|日本ダービー制覇の瞬間。独走するガヴアナー 1935年3月30日[20]に中山競馬場の新呼馬競走でデビュー、井川為男が騎乗して初戦を飾った[18]。井川は、美馬勝一厩舎所属の騎手であったが、同厩舎所属の見上恒芳が布施の娘婿だった縁もあり、ガヴアナーへの騎乗を依頼されたといわれている[21]。井川は以後、全ての競走でガヴアナーの鞍上を務めた[22]。その後、4月14日[23]の新呼馬優勝競走も勝利、同馬の厩務員(馬手)であった茅島高平は、喜びのあまりガヴアナーに頬ずりをした[18]。2戦2勝としたガヴアナーは、目標としていた[24]東京優駿大競走に向かった[18]。
迎えた東京優駿大競走は、前日夜から降り続いた雨の影響で、第1回以降四回連続で道悪の馬場での開催となった[15][16]。競走は11頭立てで行われ[15]、断然の一番人気は、古馬相手に帝室御賞典を勝った牝馬クレオパトラトマスで、ガヴアナーは二番人気に支持された[2][25]。ガヴアナーは前々日朝の調教で東京競馬場の内馬場(練習馬場)を124秒の好タイムで走破していたが、クレオパトラトマスの人気が勝る結果となった[17]。
競走は、発馬で出遅れたクレオパトラトマスが巻き返しをはかり、先頭に立って逃げる展開となった[26]。ガヴアナーは、第1コーナーを先頭から4馬身ほど離れた2番手の位置で通過、後ろにはアカイシダケ、チカラと続いた[16]。向正面までは展開変わりなく進んだが[15]、ガヴアナーは第3コーナーあたりでスパートを駆け、足が鈍ったクレオパトラトマスをバンケット付近で抜き去ると[26]、先頭で第4コーナーを回った[16]。直線ではアカイシダケとの一騎打ちになったが、アカイシダケが先に力尽き、ガヴアナーがそのまま1着で入線[3]。2着に6馬身の着差をつけるレコードでの圧勝であった[3]。3着にはホウカツミンドアーが入り、1番人気のクレオパトラトマスは9着に終わった[16]。
ガヴアナーの勝利で、シアンモア産駒はカブトヤマ、フレーモアに続き日本ダービー3連覇を達成し[14]、カブトヤマとガヴアナーは史上初の兄弟ダービー馬となった[18]。井川は前回の日本ダービーでヤングパレードに騎乗し、フレーモアの6着であったが、2度目の挑戦でダービージョッキーの栄冠を手に入れた[15]。
ダービー後の故障、安楽死[編集]
[[File:Governor tombstone.jpg|150px|thumb|right|ガヴァナー墓碑
(2013年撮影)
日本ダービー優勝後、「どこまで連勝を伸ばすか」とその前途を大いに期待されたガヴアナーだったが[27]、わずか競走2週間後の5月15日、東京競馬場での調教中に木柵に衝突し[28]、左後脚の種子骨を骨折[15]。懸命な治療が施されるも次第に衰弱していったため、同月28日には安楽死(薬殺)の処置が執られ、3戦無敗のままこの世を去った[3][14]。遺体は東京競馬場内の競走馬墓地に葬られ、後に、馬頭観音境内の馬霊塔に改葬された[22]。
ガヴアナーの死に際して、茅島の悲嘆は殊のほか深く、その様子を見かねた布施はヘルムートという馬を新たに担当させて励ました[27]。しかしその数日後、茅島は、雨の中運動させるため、ヘルムートに雨合羽を着せようとしたところ、驚いた同馬に腹部を蹴られてしまった[3][18]。この事故で茅島は腸破裂の重傷を負い、病院に運ばれるも間もなく死去した[27]。ガヴアナー、茅島と続いた死に、関係者は「ガヴアナーが呼び寄せたのだ」と嘆いたという[27]。
馬体・評価[編集]
体高は1.58m[1]。黒鹿毛で額に大きな星があり、旋毛は珠目上下、右髪中、波分[1][18]。全兄のカブトヤマよりやや小柄であったが[29]、体形の評価は良く、関係者は「ダービー後の不幸が無ければ兄に劣らぬ成績を残せただろう」とその死を惜しんだ[3][18]。
藤田太は、読売新聞に掲載されたコラムで、ダービー馬候補の一頭にガヴアナーを挙げて「対称極めて良く馬品を加えて千里の名馬を思わせるものある」と評している[注 3][29]。また、尾形によれば重馬場が得意であった[25]。
競走成績[編集]
以下の内容は、『ダービー馬の履歴書』[30]に基づく。
競走日 | 競馬場 | 競走名 | 距離(馬場) | 頭数 | 人気 | 着順 | タイム | 着差 | 騎手 | 斤量 | (2着馬) | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1935 | 3. | 30 | 中山 | 新呼馬 | 芝2000m(不) | 3 | 1人 | 1着 | 2:14.3 | 4馬身 | 井川為男 | 55 | (フソウ) |
4. | 14 | 中山 | 優勝 | 芝2200m(良) | 6 | 1人 | 1着 | 2:23.4 | 4馬身 | 井川為男 | 55 | (タマナギ) | |
4. | 29 | 東京 | 東京優駿大競走 | 芝2400m(不) | 11 | 2人 | 1着 | R2.42.1 | 6馬身 | 井川為男 | 55 | (アカイシダケ) |
- タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
血統表[編集]
ガヴアナーの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | スペキュラム系<エクリプス系 |
[§ 2] | ||
父 *シアンモア Shian Mor 1924 黒鹿毛 |
父の父 Buchan1916 鹿毛 |
Sunstar | Sundridge | |
Doris | ||||
Hamoaze | Torpoint | |||
Maid of the Mist | ||||
父の母 Orlass1914 黒鹿毛 |
Orby | Orme | ||
Rhoda B. | ||||
Simon Lass | Simmontault | |||
Kilkenny Lass | ||||
母 アストラル 1921 栗毛 |
*チヤペルブラムプトン Chapel Brampton 1912 栗毛 |
Beppo | Marco | |
Pitti | ||||
Mesquite | Sainfoin | |||
St.Silave | ||||
母の母 種義1912 栗毛 |
*ダイヤモンドウエツデイング Diamond Wedding |
Diamond Jubilee | ||
Wedlock | ||||
*ビユーチフルドリーマー Beautiful Dreamer |
Euthusiast | |||
Reposo | ||||
母系(F-No.) | (FN:F-No.12) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Angelica (St.Simon) 5.5×5=9.38%、Sierra (Sainfoin) 5×4=9.38%、Amphion 5x5=6.25% | [§ 4] | ||
出典 |
注釈・出典[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d 「登録馬名表/駈歩及障碍馬」『競馬成績書 昭和10年春季』帝国競馬協会、1935年、85頁。doi:10.11501/1096560 。2023年12月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 江面弘也「競馬史に名を残す無敗のダービー馬たち」『優駿 2020年6月号』日本中央競馬会、2020年、35頁頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「第4回 ガヴアナー無敵のレコードで制す」『日本ダービー50年史』日本中央競馬会、1983年、54-55頁 。2024年7月7日閲覧。
- ^ 「栄冠に輝く 14の生産牧場」『日本ダービー25年史』日本中央競馬会、1959年、138-139頁。doi:10.11501/8799731 。2023年12月10日閲覧。
- ^ 「カブトヤマ」『サラブレッド系種牡馬名簿 第1巻』日本競馬会、1941年、71-72頁。doi:10.11501/1067255 。2023年12月9日閲覧。
- ^ 「第八章 東京競馬の主要競走/東京優駿大競走」『日本競馬史 第3巻』日本中央競馬会、1968年、163頁。doi:10.11501/2527148 。2023年12月10日閲覧。
- ^ 「ロツキーモアー」『サラブレッド系種牡馬名簿 第1巻』日本競馬会、1941年、67-68頁。doi:10.11501/1067255 。2023年12月9日閲覧。
- ^ 「第八章 東京競馬の主要競走/帝室御賞典競走(大正12年以降)」『日本競馬史 第3巻』日本中央競馬会、1968年、150頁。doi:10.11501/2527148 。2023年12月10日閲覧。
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- ^ a b c d 麓三郎「第三章第三節 育馬を中心とした充実期」『小岩井農場七十年史』小岩井農牧、1968年、262-263頁。doi:10.11501/3442272 。2023年12月10日閲覧。
- ^ 「第八章 東京競馬の主要競走/帝室御賞典競走(大正12年以降)」『日本競馬史 第3巻』日本中央競馬会、1968年、148頁。doi:10.11501/2527148 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b c 「アストラル」『サラブレッド血統書 第1巻』日本競馬会、1941年、112-113頁。doi:10.11501/1067256 。2023年12月9日閲覧。
- ^ 麓三郎「第三章第二節 育牛を主軸とした発展期」『小岩井農場七十年史』小岩井農牧、1968年、232頁。doi:10.11501/3442272 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b c d 麓三郎「第三章第三節 育馬を中心とした充実期」『小岩井農場七十年史』小岩井農牧、1968年、275-276頁。doi:10.11501/3442272 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f 「第4回 ガヴアナー」『日本ダービー25年史』日本中央競馬会、1959年、35頁。doi:10.11501/8799731 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f 尾形藤吉「第二部 馬を語る/黄金の年」『競馬ひとすじ:私と馬の六十年史』徳間書店、1967年、159頁。doi:10.11501/2514623 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b c 「日本ダービー落穂集」『日本ダービー25年史』日本中央競馬会、1959年、143-144頁。doi:10.11501/8799731 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 今井昭雄「ダービー直後に殺された良血ガヴァナー」『ダービー馬の履歴書』保育資料社、1987年、34-36頁。
- ^ 「栄冠に輝く 15人の調教師」『日本ダービー25年史』日本中央競馬会、1959年、137-138頁。doi:10.11501/8799731 。2023年12月10日閲覧。
- ^ 「競馬成績書/中山競馬倶楽部」『競馬成績書 昭和10年春季』帝国競馬協会、1935年、11頁。doi:10.11501/1096560 。2023年12月10日閲覧。
- ^ 「栄冠に輝く 22人の騎手」『日本ダービー25年史』日本中央競馬会、1959年、135頁。doi:10.11501/8799731 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b 「ダービー優勝馬の全成績」『日本ダービー50年史』日本中央競馬会、1983年、206頁 。2024年7月7日閲覧。
- ^ 「競馬成績書/中山競馬倶楽部」『競馬成績書 昭和10年春季』帝国競馬協会、1935年、23頁。doi:10.11501/1096560 。2023年12月10日閲覧。
- ^ 増田生「競馬」『文芸春秋 5月号(第十三年第五号)』文芸春秋、1935年、256頁。
- ^ a b 尾形藤吉「第二部 馬を語る/黄金の年」『競馬ひとすじ:私と馬の六十年史』徳間書店、1967年、158頁。doi:10.11501/2514623 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b 生駒勝「競馬場風景」『行動 6月号』紀伊国屋出版部、1935年、240-241頁。doi:10.11501/1539199 。2023年12月10日閲覧。
- ^ a b c d 岩川隆「競馬史を駆け抜けた馬たち」『忘れられない名馬100』学習研究社、1996年、37頁。
- ^ 「ダービーの勝馬列傳 ④不幸だったガヴァナー」『競馬研究 558号』競馬研究社、1953年、28頁。
- ^ a b c 藤田太「第四次ダービー概観②」『読売新聞 朝刊』読売新聞社、1935年2月10日、5頁。
- ^ 今井昭雄「歴代日本ダービー優勝馬の全戦績表」『ダービー馬の履歴書』保育資料社、1987年、252頁。
- ^ a b c “カブトヤマ 5代血統表”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2023年12月9日閲覧。
- ^ 「父系別成績/10.カブトヤマ」『国営競馬統計 昭和26年』農林省畜産局競馬部、1952年、178頁 。2024年7月7日閲覧。
- ^ “カブトヤマの種牡馬情報”. 競馬ラボ. Do innovation. 2024年7月7日閲覧。
参考文献[編集]
- 『競馬成績書』昭和10年春季、帝国競馬協会、1935年、NDLJP:1096560
- 『日本ダービー25年史』日本中央競馬会、1959年、NDLJP:8799731
- 尾形藤吉『競馬ひとすじ:私と馬の六十年史』徳間書店、1967年、NDLJP:2514623
- 麓三郎『小岩井農場七十年史』小岩井農牧、1968年、NDLJP:3442272
- 『日本ダービー50年史』日本中央競馬会、1983年、NDLJP:12441265
- 今井昭雄『ダービー馬の履歴書』保育資料社、1987年、ISBN 978-4829302170
- 『忘れられない名馬100』学習研究社、1996年、ISBN 978-4056013924
雑誌[編集]
- 『文芸春秋』文芸春秋、1935年5月号
- 『行動』紀伊国屋出版部、1935年6月号
- 『競馬研究』競馬研究社、558号(1953年5月)
- 『優駿』日本中央競馬会、2020年6月号
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