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利用者:高橋呑舟/下書き1

エフゲニー・プリマコフ内閣ロシア語: Правительство Примакова)は、ボリス・エリツィンロシア連邦大統領時代、エフゲニー・プリマコフロシアの首相に任命され成立したロシア連邦内閣1998年9月11日から1999年5月12日まで続いた[1]

内閣の構成は、1998年9月22日付けロシア連邦大統領令ウカース)第1142号(「行政権の連邦機関の構成」)によって承認された[2]

概要

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1998年8月17日セルゲイ・キリエンコ内閣は、ルーブルの切り下げと90日間の対外債務の支払停止(デフォルト)を発表しロシア金融危機が起こった。これに先立つ8月13日ボリス・エリツィン大統領は、訪問先のノヴゴロドで通貨切り下げを否定していただけに、エリツィンへの反発は強く、ロシア連邦議会下院国家会議8月21日、臨時本会議を開会しエリツィンに任期満了以前の自発的辞職勧告決議案を賛成245、反対32で可決した。更に下院経済政策委員会、下院工業委員会は、財政金融問題に関する決議を採択し、この中でロシア連邦政府ロシア中央銀行の金融危機への対応を満足のいくものではないと非難した。

8月23日、エリツィン大統領は突如、キリエンコ内閣の全閣僚を罷免した。翌8月24日、エリツィンはヴィクトル・チェルノムイルジン前首相を首相代行に任命した。エリツィン及び彼の周辺(セミヤー)は、チェルノムイルジンが5年余に渡り首相を務め、病身の自分に代わり権力を強大化させたことを嫌って、次期大統領選挙立候補準備を理由に5ヶ月前に退陣させたばかりであった。そのため、キリエンコを解任し、チェルノムイルジンを首相代行として再登板させたことに対して野党勢力は支離滅裂であるとますます批判を強めた。8月31日、下院はチェルノムイルジンの首相承認を賛成94、反対251で否決した。エリツィンは再度、下院にチェルノムイルジンの承認を求めたが、9月7日の第2回投票でも賛成137、反対273で否決された。チェルノムイルジン自身は第3回投票に持ち込むことを辞さない覚悟であったが[3]、エリツィンは2度の否決でチェルノムイルジンの承認をあきらめ、新たにエフゲニー・プリマコフ外相代行を首相候補に擁立した[4]

9月11日、下院はプリマコフ首相を賛成317、反対63、棄権15で承認した。プリマコフは大統領与党である「我が家ロシア」のほか、自らの首相承認に際し賛成票を投じたロシア連邦共産党ロシア農業党などの左派勢力、自由民主党の協力を得ることに成功した。すなわち第一副首相として旧ソ連国家計画委員会(ゴスプラン)議長だったユーリ・マスリュコフを入閣させた。またロシア連邦中央銀行総裁には同じく旧ソ連時代にソ連国立銀行(ゴスバンク)総裁を務めた共産党が推すヴィクトル・ゲラシチェンコが任命された。この他、社会政策担当副首相に共産党系のワレンチナ・マトヴィエンコが女性閣僚として入閣。自民党からはセルゲイ・カラシニコフ下院社会問題委員会議長が労働・社会開発相として入閣した。一方、若手の改革派であるヴィクトル・フリステンコボリス・フョードロフアレクサンドル・ショーヒンの三人はそれぞれ副首相を辞任し閣外に去った[5]

1998年9月24日、プリマコフ首相は初閣議の席上、キリエンコ前政権が実施したルーブル切り下げと国債の借り換えはエリツィン大統領の承認を得ていないと批判した上で、減税による国内産業活性化、資本の国外流出防止、貿易管理強化、ウォッカ、ウィスキー専売制、徴税強化、軍人への給料遅配改善策などの統制色の強い経済・産業政策を打ち出した。

プリマコフ首相は、老練な政治手腕を発揮し、ロシア連邦共産党を始め閣僚を輩出した各党派の支持と自身の出身母体でもある旧ソ連国家保安委員会(KGB)、ロシア連邦保安庁の人脈を活用して、徐々に政局の安定を取り戻していった。一方、ボリス・エリツィン大統領は、1998年10月7日に退陣を要求する全国的なデモに見舞われる。更に10月11日、訪問中のウズベキスタンで歓迎式典中に大きくよろめき、モスクワ郊外で静養したことをきっかけに健康不安による大統領早期退陣を求める声が高まり始めた。さらに1999年2月から、新興財閥ロゴヴァス・グループの総帥でボリス・ベレゾフスキー独立国家共同体(CIS)執行書記、エリツィンの次女タチアナ・ディアチェンコ大統領補佐官、アレクサンドル・ヴォローシン大統領府長官エリツィン側近らファミリー(セミヤー)の汚職疑惑が持ち上がった。ロシア連邦議会下院国家会議は共産党が第一党にあり、共産党主導で大統領弾劾によるエリツィン罷免に動いた。議会の動きに対してポスト・エリツィンの最有力候補に浮上したプリマコフは積極的に反対せずエリツィンの怒りを買う。1999年5月11日、下院国家会議は大統領弾劾問題の審議を13日から開始することを決定したが、5月12日、エリツィン大統領は先手を打ってプリマコフ首相を解任、首相代行にセルゲイ・ステパーシン第一副首相兼内相を任命した。

新設・再編された省庁

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閣僚

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職名 氏名 就任日 退任日 備考
首相[6]
エフゲニー・プリマコフ 1998年9月11日[7] 1999年5月12日
セルゲイ・ステパーシン 1999年5月12日[8] 1999年8月16日 首相代行。5月19日に正式に首相に就任。
第一副首相[6]
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ユーリー・マスリュコフ
ユーリ・マスリュコフ[9] 1998年9月11日 1999年5月12日
第一副首相
ワジム・グストフ[6] 1998年9月18日[10] 1999年4月27日[11]
セルゲイ・ステパーシン 1999年4月27日[12] 1999年5月19日
第一副首相[6]
ニコライ・アクショーネンコ[13] 1999年5月12日 1999年5月19日
副首相
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ウラジーミル・ブルガーク
ウラジーミル・ブルガーク 1998年9月18日 1999年5月12日 産業・通信担当。
副首相
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ゲンナジー・クーリク
ゲンナジー・クーリク 1998年9月21日 1999年5月12日 農工コンプレックス担当。
副首相
ワレンチナ・マトヴィエンコ 1998年9月24日 1999年5月12日 社会政策担当。
副首相兼国税庁長官
ボリス・フョードロフ 1998年8月17日 1998年9月28日 ヴィクトル・チェルノムイルジン首相代行の下で任命。
副首相
ヴィクトル・フリステンコ 1998年9月11日 1998年9月18日
アレクサンドル・ショーヒン 1998年9月16日 1998年9月30日
内閣官房長官兼連邦大臣(国務相)
ユーリ・ズバコフ 1998年9月14日 1999年5月19日
外相
イーゴリ・イワノフ 1998年9月11日 1999年5月12日
国防相
イーゴリ・セルゲーエフ 1998年9月11日 1999年5月12日
内相
セルゲイ・ステパーシン 1998年9月11日 1999年5月12日
非常事態相
セルゲイ・ショイグ 1998年9月11日 1999年5月12日
反独占政策・企業家精神支援相
ゲンナジー・ホドィレフ 1998年10月28日 1999年5月12日
経済相
アンドレイ・シャポヴァリヤンツ 1998年9月25日 1999年5月12日
法相
パーヴェル・クラシェニンニコフ 1998年9月11日 1999年5月12日
CIS担当相
ボリス・パスツホフ 1998年9月11日 1999年5月12日
鉄道相
ニコライ・アクショーネンコ 1998年9月11日 1999年5月12日
科学技術相
ミハイル・キルピチニコフ 1998年9月11日 1999年5月12日
貿易相
ゲオルギー・ガブニヤ 1998年9月11日 1999年5月12日
運輸相
セルゲイ・フランク 1998年9月11日 1999年5月12日
燃料エネルギー相
セルゲイ・ゲネラロフ 1998年9月11日 1999年5月12日
民族政策相
ラマザン・アブドラチポフ 1998年9月11日 1999年5月12日
蔵相
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ミハイル・ザドルノフ
ミハイル・ザドルノフ 1998年9月11日 1999年5月12日
国家資産相
ファリット・ガジズーリン 1998年9月28日 1999年5月12日
農業食糧相
ヴィクトル・セミョーノフ 1998年9月11日 1999年5月12日
地域政策相
ヴァレリー・キルピチノフ 1998年9月11日 1999年5月12日
一般教育・職業教育相
ウラジーミル・フィリッポフ 1998年9月11日 1999年5月12日
労働・社会開発相
セルゲイ・カラシニコフ 1998年9月11日 1999年5月12日
文化相
ウラジーミル・エゴロフ 1998年9月11日 1999年5月12日
原子力相
エフゲニー・アダモフ 1998年9月11日 1999年5月12日
天然資源相
ヴィクトル・オルロフ 1998年10月6日 1999年5月12日
税務・関税相
ゲオルギー・ボース 1998年12月23日 1999年5月12日

参考文献

[編集]

脚注

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  1. ^ Указ Президента РФ от 12 мая 1999 г. N 580 "О Председателе Правительства Российской Федерации"объявлено об отставке Правительства Российской Федерации; тем же указом Президент РФ поручил Правительству РФ продолжать исполнять свои обязанности до формирования нового состава Правительства РФ.
  2. ^ 1999年から2000年までのロシア連邦の省庁の動態については、「1994年から2000年におけるロシアの連邦行政(権)機関の構成」Структура федеральных органов исполнительной власти России (1994—2000)を参照
  3. ^ エリツィン(2004:308頁)
  4. ^ 木村(2002:225頁)プリマコフは、自由民主党を除く各会派から首相候補として推薦されていた。
  5. ^ 木村(2002:226頁)
  6. ^ a b c d Входил в состав Президиума Правительства Российской Федерации.
  7. ^ Назначен Указом Президента Российской Федерации от 11.09.1998 № 1087 «О Председателе Правительства Российской Федерации», назначение одобрено Постановлением Государственной Думы Федерального Собрания Российской Федерации от 11.09.1998 № 2961-II ГД «О даче согласия Президенту Российской Федерации на назначение Примакова Евгения Максимовича на должность Председателя Правительства Российской Федерации». Ранее Государственная Дума постановлениями № 2898-II ГД от 31 августа 1998 года и № 2928-II ГД от 7 сентября 1998 года дважды отклонила представленную Президентом РФ кандидатуру Виктора Черномырдина на должность Председателя Правительства РФ.
  8. ^ Временное исполнение обязанностей возложено Указом Президента Российской Федерации от 12.05.1999 № 580 «О Председателе Правительства Российской Федерации».
  9. ^ Назначен Указом Президента Российской Федерации от 11.09.1998 № 1089 «О Маслюкове Ю. Д.».
  10. ^ Назначен Указом Президента Российской Федерации от 18.09.1998 № 1119 «О Густове В. А.».
  11. ^ Освобождён от занимаемой должности Указом Президента Российской Федерации от 27.04.1999 № 529 «О Густове В. А.».
  12. ^ Назначен Указом Президента Российской Федерации от 27.04.1999 № 530 «О Первом заместителе Председателя Правительства Российской Федерации — Министре внутренних дел Российской Федерации», должность Министра внутренних дел Российской Федерации занимал ранее.
  13. ^ Занимал эту должность ранее, вновь назначен Указом Президента Российской Федерации от 21.05.1999 № 638 «О Аксёненко Н. Е.».