ヴィクトル・チェルノムイルジン
ヴィクトル・チェルノムイルジン Ви́ктор Степа́нович Черномы́рдин | |
---|---|
2010年 | |
生年月日 | 1938年4月9日 |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 オレンブルク州 |
没年月日 | 2010年11月3日(72歳没) |
死没地 | ロシア連邦 モスクワ |
出身校 |
クイビシェフ工科大学 全連邦通信制工業大学経済学部 |
前職 |
ガスプロム社長 駐ウクライナロシア大使 |
所属政党 | 我が家ロシア |
配偶者 | ワレンチナ・チェルノムイルジナ |
子女 | 2人 |
サイン | |
在任期間 | 1992年12月14日 - 1993年12月25日 |
大統領 | ボリス・エリツィン |
在任期間 | 1993年12月25日 - 1998年3月23日 |
大統領 | ボリス・エリツィン |
在任期間 | 1998年8月23日 - 1998年9月11日 |
大統領 | ボリス・エリツィン |
在任期間 | 1985年2月12日 - 1989年6月27日 |
閣僚会議議長 |
ニコライ・チーホノフ ニコライ・ルイシコフ |
ヴィクトル・ステパノヴィチ・チェルノムイルジン(ロシア語: Ви́ктор Степа́нович Черномы́рдин, ラテン文字転写: Viktor Stepanovich Chernomyrdin, 1938年4月9日 - 2010年11月3日)は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家。ボリス・エリツィン政権にて初代ロシア連邦首相、1998年に設立したガスプロムの初代社長を務めた。
経歴
[編集]1938年4月9日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のオレンブルク州に誕生する。1966年にクイビシェフ工科大学を卒業。1972年に全連邦通信制工業大学経済学部を卒業した。
1961年にソビエト連邦共産党に入党。一貫して天然ガスなどのエネルギー関係を渡る。1973年、オレンブルク・ガス精製工場支配人となる。1978年、共産党中央委員会重工業部に移る。1982年、ソビエト連邦石油ガス工業省次官に任命される。1983年、全連邦工業合同「グラヴチュメンガスプロム」(ガスプロムの前身)支配人を兼務する。1985年、ニコライ・ルイシコフ首相のもとでソビエト連邦ガス工業相に就任する。グリゴリー・ヤブリンスキーが中心になって立案した「500日計画」には反対した。1989年、ガス工業省内に国営コンツェルンガスプロムを創設する。ガスプロムは天然ガス企業として世界最大規模を誇り、チェルノムイルジンは同年8月に社長に選出された。
1990年3月、ロシア共和国人民代議員選挙に立候補するが、ドミトリー・ウォルコゴノフ将軍に敗れる。1991年、ソ連8月クーデターが失敗に終わり、ソビエト連邦共産党の解党が決定的になるとチェルノムイルジンは共産党を離党する。1992年5月、ロシア連邦政府の燃料エネルギー担当の副首相に任命される。ボリス・エリツィン大統領はエゴール・ガイダルとアナトリー・チュバイスを起用して急進的な市場経済導入を推進したが、そのためのショック療法により、ロシア経済はハイパーインフレーションに見舞われ、エリツィン政権に対する国民で特に低所得者層・年金生活者など社会的弱者の支持は急降下していった。エリツィンは新たなる支持基盤として民営化によって生まれた新興財閥に注目し、その代表とも言うべきガスプロムの代表であり、急進的な経済改革では無く穏健な経済改革を主張していたチェルノムイルジンを登用することになる。1992年12月、第7回人民代議員大会でロシア連邦首相となる。
首相時代
[編集]初代ロシア連邦首相となったチェルノムイルジンはエリツィンに対して忠誠を誓い、アレクサンドル・ルツコイ副大統領と最高会議議長のルスラン・ハズブラートフがエリツィンに対して離反した際には、1993年9月のロシア議会(人民代議員大会と最高会議)解散に関する大統領令を支持し、最高会議ビルに立てこもったルツコイとハズブラートフらを武力で鎮圧した。1995年5月には、大統領与党として設立された選挙ブロック「我が家ロシア」評議会議長に就任。自身も同年12月下院国家会議選挙で、「我が家ロシア」で比例区から当選したが、「我が家ロシア」そのものは得票率において、ロシア自由民主党・ロシア連邦共産党に次ぐ第3党に留まった(議席数65)。しかし1996年ロシア連邦大統領選挙でのエリツィン大統領の再選には多大な貢献を行い、8月10日に首相に再任される。1996年4月1日に大統領令により「チェチェン紛争解決国家委員会」が設置され、さらにチェルノムイルジンは同委員会議長に任命され、第一次チェチェン紛争の収拾に尽力した。さらに1996年11月5日から11月6日にかけてエリツィンが心臓手術を受けている間に臨時大統領を務めた。
こうして5年余りにも及ぶ首相在任によって、チェルノムイルジンはエリツィンに次ぐ政治権力者となったかに見えたが、1998年3月23日に突然の大統領令によって首相職を解任された。この大統領令は2000年ロシア連邦大統領選挙へチェルノムイルジンが立候補するため、その準備のために首相職を解任すると説明されたが、実際は健康を悪化させていたエリツィンに代わってチェルノムイルジンが政権内で巨大な存在になったことを嫌ったエリツィンとその周辺による体の良い厄介払いであったと言われている。エリツィン大統領は当初はチェルノムイルジンの後任の首相を任命せず、自らが首相代行を兼任して権力を掌握しようとしたが、憲法裁判所がこの措置を違法と裁定したことによってそれを断念し、若手政治家のセルゲイ・キリエンコを首相代行から首相に任命して、チェルノムイルジンの後継内閣を組閣させた。
その後
[編集]しかし1998年8月17日にセルゲイ・キリエンコ内閣はルーブルの切り下げと90日間の対外債務の支払い停止(デフォルト)を発表し、これがロシア財政危機のきっかけとなった。この危機にあってキリエンコは事態を収拾することができず、8月23日にボリス・エリツィン大統領は突如キリエンコ内閣の全閣僚を罷免した。
8月24日にエリツィンは再びチェルノムイルジンを起用し、彼を首相代行に任命した。エリツィンは若手改革派ではあるが政治的力量に欠けていたキリエンコを切り捨て、「重量級」であるチェルノムイルジンを再登板させようと目論んだわけである。しかし野党勢力はこうしたエリツィンの行動が支離滅裂であるとますます批判を強めた。8月31日に下院はチェルノムイルジンのロシア連邦首相承認を賛成94・反対251で否決した。エリツィンは再度下院にチェルノムイルジンの承認を求めたが、9月7日の第2回投票でも賛成137・反対273で否決された。チェルノムイルジン自身は第3回投票に持ち込むことを辞さない覚悟であったが、エリツィンは2度の否決でチェルノムイルジンの承認を諦めてチェルノムイルジンは首相再登板の目を絶たれてしまった。新首相には議会の受けも良かったエフゲニー・プリマコフ外相代行が就任した[1]。
チェルノムイルジンはその後の1999年にユーゴスラビア紛争調停のため、大統領特使としてユーゴに派遣される。同年12月の下院国家会議選挙では「我が家ロシア」は5パーセント条項を突破せず比例区で議席を獲得できなかったが、チェルノムイルジン自身は小選挙区から立候補して当選した(「我が家ロシア」はその後、政権与党の「統一ロシア」に合流した)。その後2001年5月に駐ウクライナ大使に任命された。
2009年6月11日にウクライナ大使を解任され、大統領顧問兼CIS諸国経済協力特別大統領代表に任命された。
2010年11月3日にモスクワ市内の病院で死去[2]。72歳であった。
ガスプロムとロシア経済
[編集]在任中の政策により、新興財閥(オリガルヒ)を巨大化させた。また、自身の母体であるガスプロムなどのガス石油企業に対する保護はロシアの国家財政における税収不足を引き起こす事態になり、短期国債の乱発とともにロシア財政危機の一因となった。
脚注
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 セルゲイ・キリエンコ |
ロシア連邦首相 (代行)1998年8月23日 - 1998年9月11日 |
次代 エフゲニー・プリマコフ |
先代 自分自身 (閣僚会議議長) |
ロシア連邦首相 初代:1993年12月25日 - 1998年3月23日 |
次代 セルゲイ・キリエンコ (エリツィン代行は無効) |
先代 エゴール・ガイダル (代行) |
ロシア連邦閣僚会議議長 第2代:1992年12月14日 - 1993年12月25日 |
次代 自分自身 (首相) |