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セルゲイ・ステパーシン内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

セルゲイ・ステパーシン内閣ロシア語: Правительство Степашина)は、ボリス・エリツィンロシア連邦大統領時代、セルゲイ・ステパーシンロシアの首相に任命され成立したロシア連邦内閣1999年5月19日から同年8月9日まで続いた[1]

内閣の構成は、1999年5月25日付けロシア連邦大統領令(ウカース)ロシア語版第651号(「行政権の連邦機関の構成」)によって承認された[2]

概要

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セルゲイ・キリエンコ内閣ロシア金融危機によって倒れた後を襲ったエフゲニー・プリマコフ首相は、老練な政治手腕を発揮し、ロシア連邦共産党を始め閣僚を輩出した各党派の支持と自身の出身母体でもある旧ソ連国家保安委員会(KGB)、ロシア連邦保安庁の人脈を活用して、徐々に政局の安定を取り戻していった。一方、ボリス・エリツィン大統領は、1998年10月11日、訪問中のウズベキスタンで歓迎式典中に大きくよろめき、モスクワ郊外で静養したことをきっかけに健康不安による大統領早期退陣を求める声が高まり始めた。さらに1999年2月から、新興財閥ロゴヴァス・グループの総帥でボリス・ベレゾフスキー独立国家共同体(CIS)執行書記、エリツィンの次女タチアナ・ディアチェンコ大統領補佐官、アレクサンドル・ヴォローシン大統領府長官エリツィン側近らセミヤーの汚職疑惑が持ち上がった。ロシア連邦議会下院国家会議は共産党が第一党にあり、共産党主導で大統領弾劾によるエリツィン罷免に動いた。議会の動きに対してポスト・エリツィンの最有力候補に浮上したプリマコフは積極的に反対せずエリツィンの怒りを買う。1999年5月11日、下院国家会議は大統領弾劾問題の審議を13日から開始することを決定したが、5月12日、エリツィン大統領は先手を打ってプリマコフ首相を解任、首相代行にセルゲイ・ステパーシン第一副首相兼内相を任命した。5月15日、下院国家会議は、エリツィン大統領弾劾動議案に関して票決し、弾劾に必要な賛成票が3分の2に達せず成立しなかった。5月19日、下院国家会議はステパーシン首相就任を賛成多数で承認した。

ステパーシンは、内相の前に法相、連邦保安庁長官を歴任した治安畑の官僚であり、エリツィンは共産党を中心とする反対党への対応やセミヤーの権益保持のために彼を首相に任命した[3]5月21日、エリツィン大統領とステパーシン首相は会談し、ニコライ・アクショーネンコ前鉄道相を第一副首相に任命した。アクショーネンコの第一副首相就任を強く推薦したのはベレゾフスキーであるとされる。プリマコフ内閣の退陣とステパーシン内閣の成立にはベレゾフスキーらエリツィン側近であるセミヤーが深く関与した。アクショーネンコは第一副首相は自分ひとりを主張しステパーシン首相と対立し、ステパーシンは5月25日ミハイル・ザドルノフ蔵相をマクロ経済、財政担当の第一副首相に任命するが、後継蔵相にミハイル・カシヤノフ第一大蔵次官を任命したことに反発したザドルノフはわずか4日後の5月28日、第一副首相を辞任した。ザドルノフの辞任(解任)については、エリツィン政権で当時セミヤーの一員として隠然たる勢力を誇るボリス・ベレゾフスキーがザドルノフを嫌い、エリツィンを動かしたともいわれる[4]

1998年年末、エリツィン大統領に対し批判的な姿勢を見せていたユーリ・ルシコフモスクワ市長が代表を務める政治ブロック「祖国」と、ロシア連邦構成体である地方の共和国、州などの首長、議会議長などの政治ブロック「全ロシア」が合同し、新たな政治勢力を結成する動きが表面化した。モスクワ市長として高い評価を得ていたルシコフと、多数の地方代表が結集することは、エリツィン政権にとって脅威以外の何者でもなかった。1999年8月4日、エリツィン大統領は、「全ロシア」代表のミンチメル・シャイミーエフタタールスタン共和国大統領と会談し、ステパーシン首相を新たな政治勢力の代表に送り込むことで内部霍乱を謀ったが失敗に終わった。逆にルシコフ、シャイミーエフは同日の午後に新政治ブロック、選挙連合「祖国・全ロシア」を結成することに合意した。この連合には、地方に大きな影響力を持つ農業党も加わった。結局、8月9日、エリツィンはステパーシン首相を解任し、首相代行に内外ともに無名の存在だったウラジーミル・プーチン安全保障会議書記兼連邦保安庁長官を任命する。エリツィンはステパーシンの忠誠心と治安畑を歩んだ経歴を信頼したが、ステパーシンが当初期待されたほどにエリツィン及びセミヤーと呼ばれたエリツィン一家、政商、側近を守ることが出来ないと判断したため三ヶ月で首相を交代した。以後、ステパーシンは首相降板後、徐々にエリツィン批判に回り、野党のヤブロコに所属し1999年ロシア下院選挙に立候補、当選した。

新設・再編された省庁

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閣僚

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職名 氏名 就任日 退任日 備考
首相[5]
セルゲイ・ステパーシン 1999年5月19日[6] 1999年8月9日
ウラジーミル・プーチン 1999年8月9日[7] 1999年8月16日 首相代行。8月16日に正式に首相に就任。
第一副首相[5]
ニコライ・アクショーネンコ[8] 1999年5月19日 1999年8月9日
第一副首相 ミハイル・ザドルノフ 1999年5月25日[9] 1999年5月28日[10]
ヴィクトル・フリステンコ[5] 2000年5月31日[11] 1999年8月9日
第一副首相
ウラジーミル・プーチン 1999年8月9日 1999年8月16日
副首相
ワレンチナ・マトヴィエンコ 1999年5月19日 1999年8月9日 社会政策担当。
副首相
ウラジーミル・シチェルバク 1999年5月26日 1999年8月9日 農相兼務。
副首相
イリヤ・クレバノフ 1999年5月31日 1999年8月9日 軍産複合体担当。
原子力相
エフゲニー・アダモフ 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
内相
ウラジーミル・ルシャイロ 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
国家資産相
ファリット・ガジズーリン 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
非常事態相
セルゲイ・ショイグ 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
反独占政策・企業家支援相
イリヤ・ユジャノフ 1999年5月31日 1999年8月9日
放送・報道・マスコミュニケーション相
ミハイル・レシン 1999年7月6日 1999年8月9日
CIS担当相
レオニード・ドラチェフスキー 1999年5月19日 1999年8月9日
税金・関税相
アレクサンドル・ポチノーク 1999年5月19日 1999年8月9日
保健相
ユーリ・シェフチェンコ 1999年7月5日 1999年8月9日
外相
イーゴリ・イワノフ 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
文化相
ウラジーミル・エゴロフ 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
科学技術相
ミハイル・キルピチニコフ 1999年5月19日 1999年8月9日
国防相
イーゴリ・セルゲーエフ 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
教育相
ウラジーミル・フィリッポフ 1999年5月19日 1999年8月9日 プリマコフ内閣からの留任。
連邦・民族問題相
ヴャチェスラフ・ミハイロフ 1999年5月19日 1999年8月9日
体育文化・スポーツ・観光相
ボリス・イワンユジェンコフ 1999年6月24日 1999年8月9日
天然資源相
ヴィクトル・オルロフ 1999年5月19日 1999年8月9日
鉄道相
ウラジーミル・スタロステンコ 1999年5月29日 1999年8月9日
農業食糧相
ウラジーミル・シチェルバク 1999年5月19日 1999年8月9日 副首相兼務。
燃料エネルギー相
ヴィクトル・カリュージヌイ 1999年5月19日 1999年8月9日
運輸相
セルゲイ・フランク 1999年5月19日 1999年8月9日
労働・社会開発相
セルゲイ・カラシニコフ 1999年5月19日 1999年8月9日
蔵相
ミハイル・カシヤノフ 1999年5月19日 1999年8月9日
法相
パーヴェル・クラシェニンニコフ 1999年5月19日 1999年8月9日
経済相
アンドレイ・シャポヴァリヤンツ 1999年5月31日 1999年5月7日
連邦大臣(国務相)
ラマザン・アブドゥラチポフ 1999年5月19日 1999年8月9日
内閣官房長官兼連邦大臣(国務相)
アンドレイ・チェルネンコ 1999年5月19日 1999年8月9日
連邦大臣(国務相)
画像外部リンク
アレクサンドル・リフシツ
アレクサンドル・リフシツ 1999年6月28日 1999年8月9日

脚注

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  1. ^ Указом Президента Российской Федерации от 09.08.1999 № 1012 «О Председателе Правительства Российской Федерации» объявлено об отставке Правительства РФ. Тем же указом Президент РФ поручил Правительству РФ продолжать исполнять свои обязанности до формирования нового состава Правительства РФ.
  2. ^ 1999年から2000年までのロシア連邦の省庁の動態については、「1994年から2000年におけるロシアの連邦行政(権)機関の構成」Структура федеральных органов исполнительной власти России (1994—2000)を参照
  3. ^ 『ボリス・エリツィン最後の証言』では、エリツィンはこの段階からプーチンを後継者として考えていたが、連邦保安庁長官になったばかりで時期尚早と断念し、内相、法相、連邦保安庁長官を歴任したステパーシンを任命したとしている。
  4. ^ 『ロシア同時代史』、木村明生著、朝日新聞社発行、237頁
  5. ^ a b c Входил в состав Президиума Правительства Российской Федерации.
  6. ^ Назначен Указом Президента Российской Федерации от 19.05.1999 № 611 «О Председателе Правительства Российской Федерации», назначение одобрено Постановлением Государственной Думы Федерального Собрания Российской Федерации от 19.05.1999 № 3965-II ГД «О даче согласия Президенту Российской Федерации на назначение Степашина Сергея Вадимовича на должность Председателя Правительства Российской Федерации».
  7. ^ Временное исполнение обязанностей возложено Указом Президента Российской Федерации от 09.08.1999 № 1012 «О Председателе Правительства Российской Федерации».
  8. ^ Занимал эту должность ранее, вновь назначен Указом Президента Российской Федерации от 21.05.1999 № 638 «О Аксёненко Н. Е.».
  9. ^ Назначен Указом Президента Российской Федерации от 25.05.1999 № 652 «О Первом заместителе Председателя Правительства Российской Федерации».
  10. ^ Освобождён от занимаемой должности Указом Президента Российской Федерации от 28.05.1999 № 674 «О Задорнове М. М.».
  11. ^ Назначен Указом Президента Российской Федерации от 31.05.1999 № 688 «О Первом заместителе Председателя Правительства Российской Федерации».