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ユーリ・ルシコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユーリ・ルシコフ
ユーリ・ルシコフ
Ю́рий Миха́йлович Лужко́в
生年月日 (1936-09-21) 1936年9月21日
出生地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国モスクワ
没年月日 (2019-12-10) 2019年12月10日(83歳没)
ドイツの旗 ドイツミュンヘン
出身校 モスクワ石油ガス化学工業大学
所属政党 ソ連共産党1968年 – 1991年
祖国1998年 – 2001年
統一ロシア(2001年 – 2010年 )
配偶者 マリーナ・バシロヴァ(1958年 – 1989年、死別)
エレーナ・バトゥリナ(1991年 – )

在任期間 1992年6月6日 - 2010年9月28日
大統領 ボリス・エリツィン
ウラジーミル・プーチン
ドミートリー・メドヴェージェフ

在任期間 1991年6月24日 - 2001年8月20日

在任期間 1990年8月26日 - 1991年9月16日
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ユーリ・ミハイロヴィチ・ルシコフロシア語: Ю́рий Миха́йлович Лужко́в, ラテン文字転写: Yurii Mikhailovich Luzhkov, 1936年9月21日 - 2019年12月10日)は、ソビエト連邦及び、ロシア政治家モスクワ市長(第2代)を18年間務めた。

経歴

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1936年9月21日、モスクワに大工の家庭に生まれる。1958年にモスクワ石油ガス化学工業大学を卒業。大学卒業後、勤務していたプラスチック研究所で有能さを買われて化学工業省の部長に抜擢される。1968年ソ連共産党に入党。1980年に生産合同「ネフチヒムアヴトマーチカ」総支配人となる。1977年にはモスクワ市ソビエト(市議会)ロシア語版代議員に選出されているが、以後、モスクワ市人民委員会執行委員会ロシア語版第一副議長、モスクワ市共産党第一書記、ロシア共和国最高会議代議員を歴任する。1990年4月にモスクワ市人民委員会執行委員会議長代行となり、ミハイル・ゴルバチョフ時代の急進改革派としても知られるモスクワ市長のガブリール・ポポフによってモスクワ市人民委員会執行委員会議長に任命された。

モスクワ市長

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1991年ソ連8月クーデター後、ソ連国民経済管理委員会(暫定政府)に副議長(副首相)として入り、12月までの短期間であったが、国内商業、対外経済関係、社会政策、農工コンプレックスなどを担当した。この時期は、同じく副議長に任命されたグリゴリー・ヤブリンスキーと親しく、ヤブリンスキーが主導したいくつかの計画に参画した。また、同年6月にポポフ市長によりモスクワ市政府首相に指名された。ポポフ辞任後の1992年6月よりエリツィン大統領にモスクワ市長に任命される。1996年6月の市長選挙では90%を超える得票率で当選。

1998年11月に地方首長を集めて政治ブロック「祖国」を結成し、1999年8月にエフゲニー・プリマコフ「全ロシア」と合同し、祖国・全ロシアを結成した。「祖国・全ロシア」は、モスクワ市長として高い評価を得たルシコフと、ロシア金融危機を収束させたプリマコフが連合を組んだため、国民の支持が集まると予想されたものの、実際にはクレムリンの肝いりで政権与党「統一」が結成され、12月の下院国家会議選挙では、統一の追撃と、国営メディアを利用したクレムリンによる中傷により、共産党と統一に次ぐ第三党に甘んじた。下院選挙と同時に実施されたモスクワ市長選挙でルシコフは、71%の得票率で再選された。ルシコフは、選挙後、政権に近づき、「祖国・全ロシア」を「統一」と合流させ、新政治ブロック統一ロシアを結成し、ミンチメル・シャイミーエフセルゲイ・ショイグとともに党最高会議共同議長(党首)に就任した[1]。かくて強力なプーチン政権与党を結成し、2003年の下院選挙で「統一ロシア」は第一党となった。同日実施のモスクワ市長選挙でルシコフは75%の得票率を獲得し三選された。

卓越した行政手腕で市長として高い評価を得ており、モスクワに外国から巨額の投資を呼び込み(ロシア全体の5割に相当)、モスクワを社会主義国家の首都から、資本主義経済下の大都市へと変化させた。一方で、秘密警察チェーカーの創設者ジェルジンスキー像の再建[2]スターリンのポスターを陳列する計画[3]など国内外で物議を醸す主張も行った。

長期政権化が続く中でクレムリンとの対立が深まり、2010年9月28日メドヴェージェフ大統領によって解任された[4]

晩年

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晩年は家族とともに主にイギリスロンドンに滞在してクレムリンと距離を置き、2011年にはロシアの野党活動家アレクセイ・ナワリヌイに同情的な発言をしながら「統一ロシアでもロシア自由民主党でも公正ロシアでも右派でもない政党」に投票したと述べた[5][6][7]2016年ロシア下院選挙ではロシア連邦共産党の候補であるウラジミール・コモエドフロシア語版を支持していた[8]

2019年12月10日に手術を受けていたドイツミュンヘンにて83歳で死去した[9]

脚注

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  1. ^ ПОЛИТ.РУ \ НОВОСТИ \ Съезд центристов избрал Генеральный совет «Единства и Отечества» и призвал россиян вступать в ряды новой партии.
  2. ^ “About the Yuri Luzhkov proposal for the Dzerzhinsky monument restoration”. memo.ru. (2002年9月12日). http://www.memo.ru/eng/news/2002/10/0124102002.htm 2016年8月25日閲覧。 
  3. ^ “Prominent Russians: Yury Luzhkov”. RT. http://russiapedia.rt.com/prominent-russians/politics-and-society/yury-luzhkov/ 2016年8月25日閲覧。 
  4. ^ “大統領、モスクワ市長を解任=金満化進める、汚職疑惑も-ロシア” (日本語). 時事通信. (2010年9月28日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010092800742 2010年9月28日閲覧。 
  5. ^ Власти Латвии официально подтвердили, что бывший мэр Москвы Юрий Лужков незадолго до Нового года подал прошение на получение вида на жительство в Латвии”. Эхо Москвы. 2012年9月4日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年12月11日閲覧。
  6. ^ Лужков включён в список нежелательных для Латвии лиц”. Интерфакс. 2012年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年12月11日閲覧。
  7. ^ Mūrniece: Lužkovs nedrīkst iebraukt Latvijā, jo viņš nemīl šo valsti”. diena.lv. 2012年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年12月11日閲覧。
  8. ^ Лужков стал доверенным лицом кандидата в депутаты Госдумы от Крыма // «РБК», 27.06.2016. アーカイブ 2016年9月2日 - ウェイバックマシン
  9. ^ “Former mayor of Moscow Luzhkov, once one of Russia’s most powerful officials, dies aged 83”. RT. https://www.rt.com/russia/475468-moscow-mayor-luzhkov-dies/ 2019年12月10日閲覧。 
公職
先代
ガブリール・ポポフ
モスクワ市長
第2代:1992 - 2010
次代
ウラジーミル・レシン
(臨時代理)
先代
新設
モスクワ市政府ロシア語版首相
初代:1991 - 2001
次代
廃止
先代
ワレリー・サイキンロシア語版
モスクワ市人民委員会執行委員会ロシア語版議長
第18代:1990 - 1991
次代
廃止