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保科正倫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

保科 正倫(ほしな まさしげ[1]享保5年(1720年[2] - 延享3年12月5日1747年1月15日))は江戸時代後期の旗本寄合席飯野藩主家分家の旗本保科氏第5代目当主。は正常、のちに正倫。通称は主水。実父は保科正純。実母は保科正静養女(沼間清氏の娘)。養父は兄の保科正勝。弟は岡部経盛。正室は小笠原茂武の娘。実子は内記と娘の1男1女。養子は保科正盈戸田氏常の4男)。石高上野国群馬郡吾妻郡のうち2500石

生涯

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寛政重修諸家譜では、兄の正勝の生母は「某氏」とされる一方で、正倫の生母は父の正室の保科正静養女とされている。

元文3年(1738年)に兄が死去したので、旗本保科家の家督を継いで旗本寄合席となり、将軍徳川吉宗に初御目見えを済ませる。

延享2年1月(1745年)に火事場見廻役に就任する。延享3年(1746年)刊行の須原屋茂兵衛蔵板武鑑において出火之節見廻御役に「二千五百石 とらの御門内 保科主水」との記載がある。

延享3年12月(1747年)に死去する。享年27。法名は義操。墓所は代々の菩提寺である麻布の天眞寺。実子の内記は早世しており、末期養子として[3]大垣藩主家戸田氏分家にあたり、本家の飯野藩主保科家と縁戚関係がある旗本の戸田氏常の4男である正盈を迎えて相続させる。

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜。但し徳川家重が諱を「家重」としてからもこの読み方だったかは不明。
  2. ^ 寛政重修諸家譜記載の享年からの逆算
  3. ^ 寛政重修諸家譜の正盈の記述に「終に臨みて養子とす」とある

参考文献

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  • 『新訂寛政重修諸家譜 第4』(続群書類従完成会、1964年(昭和39年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻二百五十
  • 『改定増補 大武鑑 中巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)