伊達村倫 (涌谷伊達家)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛延2年6月19日(1749年8月1日) |
死没 | 安永5年11月20日(1776年12月30日) |
別名 | 藤四郎、安芸(通称) |
戒名 | 大通院智光道勝大居士 |
墓所 | 宮城県遠田郡涌谷町の見龍寺 |
主君 | 伊達宗村、重村 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 伊達氏、涌谷伊達家 |
父母 |
伊達宗村、橋本氏 伊達村胤 |
兄弟 |
霊松院、重村、沛姫、愷姫、土井利徳、 村倫、認姫、土井利置、堀田正敦、瑛姫、せい姫ら |
妻 | 片倉村廉娘・薫子 |
子 |
茂登 村常 |
伊達 村倫(だて むらとも)は、江戸時代中期の武士。陸奥国仙台藩一門第四席・涌谷伊達家8代(亘理氏26代)当主。
略歴
[編集]寛延2年(1749年)、仙台藩6代藩主・伊達宗村の四男として誕生。宝暦3年(1753年)11月29日、跡継ぎのなかった伊達村胤の養子となる。宝暦9年(1759年)1月7日に養父・村胤が病死したため、同年2月29日に家督を継ぎ、5月3日に仙台城に赴いて兄で7代藩主の伊達重村より偏諱を受け村倫と名を改め、安芸(通称)を称する。
宝暦13年(1763年)、坂本胤俊・山寺十左衛門らが謀反を計画するが失敗し、山寺は斬首、坂本は追放となった。明和5年(1768年)4月19日、白石城主・片倉村廉の娘・薫子を室に迎える。安永2年(1773年)、側室の子・茂登が産まれるが早世する。
安永5年(1776年)10月6日、病療養のため、涌谷領から仙台へ戻る。同年11月20日、病死した。享年28。室・薫子も安永6年(1777年)5月25日に26歳で病死した。
系譜
[編集]偏諱を受けた人物
[編集]関連項目
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