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伊達村胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達村胤
時代 江戸時代中期
生誕 享保6年8月11日1721年10月1日
死没 宝暦9年1月7日1759年2月4日
改名 盛泰(初名)、村胤
別名 重次郎、彦七郎、因幡
戒名 龍徳院大寧道亨大居士
墓所 宮城県遠田郡涌谷町見龍寺
主君 伊達吉村宗村
陸奥仙台藩
氏族 涌谷伊達家
父母 伊達村定
伊達村盛
兄弟 涼、愛、村盛村胤、園
伊達村成
順姫
村倫
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伊達 村胤(だて むらたね)は、江戸時代中期の武士陸奥国仙台藩一門第四席涌谷伊達家7代(亘理氏25代)当主。

略歴

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享保6年(1721年)、伊達村定の子として誕生。享保10年(1725年)、元服する。家督を継いでいた異母兄・村盛偏諱を受け盛泰(もりやす)と称す。同年3月22日仙台藩5代藩主・伊達吉村に謁見して日用品を賜る。元文元年(1736年)、兄・村盛が病死したのに伴い家督を継ぐ。同年6月15日、仙台城に赴いて藩主・吉村より偏諱を賜って名を村胤と改め、因幡(通称)を称する。

元文2年(1737年)6月、伊達吉村の子宗村が仙台へ下向し、村胤と歳が近かったせいか意気投合し、共に猿楽を楽しむ。翌年には共に狩猟を行っている。元文3年(1738年)11月1日、伊達村成(亘理伊達家)の娘を室に迎える。寛保3年(1743年)9月、伊達吉村が隠居し、宗家の家督を嫡男・宗村が継ぎ、太刀・馬代を献じた。宝暦3年(1753年)11月29日、村胤に子がなかったため、藩主・宗村の四男である藤四郎(後の村倫)を養子に迎える。

宝暦9年(1759年)1月7日、天然痘を患って病死した。享年39。

系譜

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関連項目

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先代
伊達村盛
涌谷伊達家
7代
次代
伊達村倫