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伊達宗翰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達 宗翰
時代 江戸時代後期
生誕 寛政8年6月19日1796年7月23日
死没 弘化2年7月8日1845年8月10日
改名 伊織・駒次郎・左京(幼名)、村翰
戒名 大法院殿注巌宗義大居士
墓所 愛媛県宇和島市吉田町の大乗寺
官位 従五位下、紀伊
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
伊予吉田藩
氏族 伊達氏
父母 父:伊達村寿、母:田中氏
養父:伊達村芳
兄弟 宗紀松根候知、包、蒔田定邦宗翰村明躊俊、勝、躊棋、雍(志賀為重室)、純(望月重咸室)、辰(神尾氏秘室)、静(桜田躊茂室)、央
正室伊達村芳の長女・於敬
福丸、養子:宗孝
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伊達 宗翰(だて むねもと)は、伊予吉田藩の第7代藩主

生涯

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寛政8年(1796年)6月19日、宇和島藩の第6代主・伊達村寿の4男として生まれる。文化13年(1816年)5月22日、吉田藩主・伊達村芳婿養子に迎えられた。直後の11月6日に村芳が隠居したため家督を継ぎ、12月に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。

藩財政再建を目指して文政5年(1822年)に自ら倹約令を出し、下級武士を職人見習いにさせるなどしている。しかし天保3年(1832年)の旱魃、天保の大飢饉などで財政はさらに苦しくなり、領民の救済などに努めざるを得なくなった。また、文武を奨励している。天保14年(1843年)6月24日に家督を養子の宗孝に譲って隠居する。弘化2年(1845年)7月8日、吉田で死去。享年50。