伊達村賢
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延享2年1月12日(1745年2月12日) |
死没 | 寛政2年2月16日(1790年3月31日) |
改名 | 武一郎・左京(幼名)、村賢 |
戒名 | 大雲院殿一蔭宗樹大居士 |
墓所 | 東京都港区の東禅寺 |
官位 | 従五位下、和泉守、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 伊予吉田藩主 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達村信、母:縫(丹波氏) |
兄弟 | 豊松、村賢、慶(南部信依正室)、成武、成寿、澄(上杉義寿室)、道(小笠原長有正室)、保五郎、稔(荻野采女室)、松田常辰 |
妻 |
正室:京極高慶の娘・於富 側室:薫、恒、弓(村田氏)、竹、琴(柴田氏) |
子 | 延、村高、村芳、誓、英、登(九鬼隆郷正室)、侶丸 |
伊達 村賢(だて むらやす)は、伊予吉田藩の第5代藩主。
生涯
[編集]延享2年(1745年)1月12日、第4代藩主・伊達村信の次男として生まれる(生年は寛保元年(1741年)とも)。宝暦5年(1755年)4月25日に世子に指名され、宝暦13年(1763年)9月8日に父が隠居したため、家督を継いだ。12月9日に従五位下・和泉守に叙位・任官する。
しかし、相次ぐ火災や幕命による天明6年(1786年)の関東河川手伝い普請などで財政難がさらに深刻化し、領民に重税を強いて財政再建を図ろうとするが、天明7年(1787年)にはそのために強訴未遂事件が起こる有様で、これは村賢の死後に武左衛門一揆が起こる前兆にもなった。寛政元年(1789年)4月12日に能登守に遷任する。
寛政2年(1790年)2月9日、病により隠居し、直後の2月16日(2月10日とも)に死去した。享年46。家督は4月2日(4月8日とも)に次男の村芳が継いだ。