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伊東長救

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊東長救
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文2年4月11日1662年5月28日
死没 延享2年9月20日1745年10月15日
改名 長救、浄山(法名)
戒名 節翁院義功浄山
墓所 高林寺文京区向丘
官位 従五位下播磨守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
備中岡田藩
氏族 伊東氏
父母 伊東長貞大久保教勝
兄弟 長救遠山友春正室、斎藤三政正室、
大嶋義也正室、酒井忠成正室
木下俊長、堀田氏
小笠原貞通正室、長丘長煕
岡部長威正室、池田長興正室、まつ ら
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伊東 長救(いとう ながひら)は、備中国岡田藩5代藩主。第4代藩主・伊東長貞の長男。

略歴

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元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継いだ。

元禄14年(1701年)、陣屋を中村から岡田山(現在の倉敷市立岡田小学校)に移す[1]

宝永2年(1705年)、岡田藩主の鎮守として岡田大池の傍の東の丘に「稲荷神社」を建立[2]

享保元年(1716年)、岡田大池に「大池の弁天様」を建立[3]

享保2年(1717年)、税や賦役の負担軽減を求めての新本義民騒動が起こった。長救はこの訴えを聞き入れる代わりに、騒動の指導者4人を処刑している。

享保3年(1718年)、岡田新道を完成させた[4]

享保8年(1723年)3月5日、新本義民騒動で失意のうちに、家督を長男・長丘に譲って隠居し、浄山と号した。

延享2年(1745年)9月20日に死去した。享年84。

系譜

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脚注

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出典

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  1. ^ 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、487-488頁。「三、川辺の殿様」 
  2. ^ 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、527-528頁。「八、岡田藩邸鎮守の稲荷宮」 
  3. ^ 大池の弁天様”. 真備地区ガイドブック. 倉敷市役所. 2023年5月27日閲覧。
  4. ^ 粕谷米夫『苔の香 真備町外史』六甲出版、1983年7月、140-142頁。「一万石に過ぎたるものが三ツ」