伊東長救
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文2年4月11日(1662年5月28日) |
死没 | 延享2年9月20日(1745年10月15日) |
改名 | 長救、浄山(法名) |
戒名 | 節翁院義功浄山 |
墓所 | 高林寺(文京区向丘) |
官位 | 従五位下播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継、吉宗 |
藩 | 備中岡田藩主 |
氏族 | 伊東氏 |
父母 | 伊東長貞、大久保教勝娘 |
兄弟 |
長救、遠山友春正室、斎藤三政正室、 大嶋義也正室、酒井忠成正室 |
妻 | 木下俊長娘、堀田氏 |
子 |
小笠原貞通正室、長丘、長煕、 岡部長威正室、池田長興正室、まつ ら |
伊東 長救(いとう ながひら)は、備中国岡田藩5代藩主。第4代藩主・伊東長貞の長男。
略歴
[編集]元禄14年(1701年)、陣屋を中村から岡田山(現在の倉敷市立岡田小学校)に移す[1]。
宝永2年(1705年)、岡田藩主の鎮守として岡田大池の傍の東の丘に「稲荷神社」を建立[2]。
享保元年(1716年)、岡田大池に「大池の弁天様」を建立[3]。
享保2年(1717年)、税や賦役の負担軽減を求めての新本義民騒動が起こった。長救はこの訴えを聞き入れる代わりに、騒動の指導者4人を処刑している。
享保8年(1723年)3月5日、新本義民騒動で失意のうちに、家督を長男・長丘に譲って隠居し、浄山と号した。
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大池の弁天様
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新本義民騒動の義民四人衆の義民碑