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伊東長寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊東長寛
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和元年7月24日1764年8月21日
死没 嘉永3年6月11日1850年7月19日
官位 従五位下播磨守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉家慶
備中岡田藩
氏族 伊東氏
父母 伊東長詮五島盛道
兄弟 長寛朽木昌綱継々室、長庚佐野貫行松平康彊正室、木下俊昌正室ら
五島盛運養女森忠興
長貴長禎天野富之長之長道
長生長世高明
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伊東 長寛(いとう ながとも)は、備中国岡田藩8代藩主。第7代藩主・伊東長詮の長男。

略歴

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岡田藩校 敬学館跡の石碑
岡山県倉敷市真備町岡田)

安永7年(1778年)閏7月24日、父長詮の死去により家督を継いだ。天明2年(1782年)2月18日、将軍徳川家治に拝謁する。天明3年12月18日、従五位下播磨守に叙任する。

父の才を受け継いだ人物で、重臣の浦池九淵[注釈 1]を重用して藩政改革を行なった[1]。その結果、財政は再建され、寛政6年(1794年)には演武場である教学館を創設[1]、寛政7年(1795年)には藩校である敬学館を創設する[注釈 2]など、大いなる成功を収めた。

はじめ五男・長禎(早世)、のち十一男・長之を世子としていたが、長之は病弱だったために廃嫡し、長禎の長男・長裕を世子とした。

嘉永3年(1850年)6月11日に死去した。享年87。跡を長裕が継いだ。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「一万石に過ぎたるものが三ツある。一に浦池、二に新道(岡山県道280号市場川辺線#重複する道路(岡田新道)参照)、三に館の時の鐘」と言われたものの一つである[1]
  2. ^ 岡田藩校 敬学館跡の石碑に「寛政7年 落成」と記されている。

出典

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  1. ^ a b c 粕谷米夫『苔の香 真備町外史』六甲出版、1983年7月、140-142頁。「一万石に過ぎたるものが三ツ」