伊東長丘
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄10年1月28日(1697年2月19日) |
死没 | 天明2年10月10日(1782年11月14日) |
改名 | 熊之助(幼名)、長広、長丘 |
戒名 | 実相院悠岳浄久 |
墓所 | 高林寺(文京区向丘) |
官位 | 従五位下伊豆守[注 1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治 |
藩 | 備中岡田藩主 |
氏族 | 伊東氏 |
父母 | 伊東長救、堀田氏 |
兄弟 |
小笠原貞通正室、長丘、長煕、 岡部長威正室、池田長興正室、まつ ら |
妻 | 大久保教寛娘、本多助芳娘 |
子 |
長詮、石河貞通、木下俊徳正室、 内田正良正室、三枝守恭継室、 松平康休継室、三枝守恭継々室、 永見為糾正室ら |
伊東 長丘(いとう ながおか)は、備中国岡田藩6代藩主。第5代藩主・伊東長救の長男。
生涯
[編集]幼名は熊之助。通称は内膳、主税。宝永5年(1705年)3月28日、将軍徳川綱吉にお目見えした。享保8年(1723年)3月5日、父長救の隠居により家督を継いだ。同年12月18日、従五位下伊豆守に叙任した[注 1]。
享保14年(1729年)4月12日、ヴェトナムより日本に渡来した象(広南従四位白象)が領内を通行し、川辺に止宿したため、藪のなかからこれを見物している。
宝暦13年(1763年)9月16日に家督を三男・長詮に譲って隠居した。隠居後、浄久と号した。天明2年(1782年)10月10日に死去した。享年86。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “萩藩主参勤交代の記録を読む -「元文2年 (1737) 御参勤御道中記録 但惣陸」- 第2版” (PDF). 山口県文書館公式ウェブサイト. 山口県文書館. p. 34. 2024年3月6日閲覧。