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U195 (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊号第五〇六潜水艦から転送)
U195
伊号第五百六潜水艦
基本情報
運用者  ドイツ国防軍海軍
 大日本帝国海軍
艦種 潜水艦
一等潜水艦
級名 IXD/1型Uボート
艦歴
計画 AVヴェーザー造船所(ブレーメン
発注 1940年11月4日
起工 1941年5月15日
進水 1942年4月8日
竣工 1942年9月5日
除籍 1945年11月30日
その後 1946年2月16日、海没処分
要目
排水量 1,610トン
水中排水量 1,799トン
全長 87.60m
水線長 68.50m
最大幅 7.50m
水線幅 4.40m
高さ 10.20m
吃水 5.40m
機関 MAN M9V40/46過給機付き9気筒ディーゼルエンジンx2基
SSW GU345/34 double-acting電動機x2基
推進 2軸
出力 水上:4,400ps
水中:1,000ps
速力 水上:19.2kt
水中:6.9kt
航続距離 水上:12ktで23,700海里
水中:4ktで57海里
潜航深度 230m
乗員 55名から63名
兵装 10.5cm砲x1門
TMAx48個
53cm魚雷発射管x6門(艦首4門、艦尾2門)/魚雷x22本
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U-195は、第二次世界大戦時のドイツ海軍: Kriegsmarine)の潜水艦Uボート)。IXD1型

U-195は1943年10月から1944年4月にかけて[1]魚雷発射管が撤去され貨物室として252tの貨物を積載できるよう改造され、補給潜水艦となった。IXD1型はU-180及びこのU-195の2隻が建造され、当初は6基の魚雷艇ディーゼルエンジン推進軸2軸の構成を試みたが、過熱を引き起こすなどの問題があって、2基の2,200hp MAN製ディーゼルエンジン2基に換装された[2]。U-180は1944年に日本へ向けての航海に出発する途中ビスケー湾で失われた。

ナチス・ドイツ降伏後は大日本帝国海軍に接収され、伊号第五百六潜水艦(いごうだいごひゃくろくせんすいかん)となった。

艦歴

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U195は1941年5月15日にブレーメンのAG・ヴェーザー社で起工され、1942年4月8日に進水し、1942年9月5日にハインツ・ブッフホルツ少佐を艦長として就役した[3]

第1次哨戒

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U-195はキールを1943年3月20日に出発し南アフリカ連邦沖の海域へ行き、そこまでで2隻を沈め、1隻に損傷を与えた[4]

  • 4月11日、北緯28度52分 西経26度30分 / 北緯28.867度 西経26.500度 / 28.867; -26.500カナリア諸島ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア西方475マイル(760km)地点付近で米リバティ船ジェームズ・W・デンヴァー(James W. Denver、7,200トン)を発見。ジェームズ・W・デンヴァーはニューヨークからカサブランカへ向かう輸送船団UGS-7に参加中、機関過熱により後落したもので、砂糖、酸、小麦粉、航空機部品、車両及びブルドーザー、計6,000トンを積んでいて、甲板上にはさらに12機のP-38 ライトニングを積んでいた。U-195は魚雷3本を発射し、うち1本が右舷2番船倉と3番船倉の間に命中。ジェームズ・W・デンヴァーは航行不能となり、右舷に傾斜。船首が水中に沈み、推進器が海上に出た。乗員42名、武装護衛隊員26名、乗客1名は5艘の救命ボートで脱出した。翌12日0120にジェームズ・W・デンヴァーは沈没した[5]
  • 5月6日、南緯15度00分 西経7度00分 / 南緯15.000度 西経7.000度 / -15.000; -7.000アセンション島南東125マイル(200km)地点付近で単独航行中の米リバティ船サミュエル・ジョーダン・カークウッド(Samuel Jordan Kirkwood、7,191トン)を発見。サミュエル・ジョーダン・カークウッドは空船でケープタウンからバイーアに向かっていた。U195は魚雷2本を発射したが、相手が12ノットでジグザグ航行していたため命中しなかった。U195はサミュエル・ジョーダン・カークウッドを追跡し、20時間後の翌7日0137に魚雷1本を発射。魚雷はサミュエル・ジョーダン・カークウッドの左舷5番船倉直後に命中。爆発により6m(20フィート)の穴が開き、変速機と推進軸が破壊され、船尾砲座が倒壊した。乗員42名、武装護衛隊員25名、乗客4名は4艘の救命ボートと1艘の救命いかだで脱出した。0352、U-195は放棄された後のサミュエル・ジョーダン・カークウッドへ魚雷を発射。魚雷が命中した同船は沈没した[6]
  • 5月12日0313、南緯23度21分 西経1度22分 / 南緯23.350度 西経1.367度 / -23.350; -1.367の地点で、U-195は単独航行中の米C1型貨物船ケープ・ネディック(Cape Neddick、6,797トン)を発見した。ケープ・ネディックはダーバンからスエズに向かっており、食糧、弾薬、航空機部品、ジープ、戦車20両、計7,100トンを積んでいて、甲板上にはさらに機関車が積まれていた。U-195は魚雷2本を発射。1本は3番船倉後方に命中したが不発。もう1本は2番船倉に命中し縦7.6m(25フィート)横9.1m(30フィート)の穴を開けた。その最中に、乗船していた武装護衛隊員は100mm(4インチ)、76mm(3インチ)砲及び20mm機関砲でU-195へ向けて砲撃した。やがて、船首から沈み始め、甲板が波に洗われるようになったため、乗員51名、武装護衛隊員25名は2艘の救命ボートと3艘の救命いかだで船を離れた。その後、沈まなかったケープ・ネディックの船長と乗員6名により航行を開始。その時U-195は魚雷1本を発射したが、魚雷はケープ・ネディックの前方を通過した。そのため、砲座から砲弾3発がU-195の方向に向け発射された。15時間後、ケープ・ネディックは現場へ戻り救命ボート、救命いかだに乗った者たちを救助し、16日に南アフリカのウォルビスベイに無事到着した[7]。U-195は126日間の哨戒の後、7月23日ボルドーに帰還した[8]

第2次哨戒

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フリードリヒ・スタインフェルト中尉の指揮でU-195は1944年8月24日にボルドーを出港し127日後の12月28日にバタヴィアに到着した[9]

第3次哨戒

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U-195の最後の哨戒は、他のUボートがインド洋での任務を終了しヨーロッパへ帰還するために必要な補給を行なうものであった。U-195は1945年1月19日にバタヴィアを出港しマダガスカル南方のインド洋へ向かった[10]。そこでモンスーン戦隊に属するUボートに対し給油を行ない、3月4日にバタヴィアへ帰還した。その後3月5日にバタヴィアを出港し、3月7日にスラバヤへ移動した[11]

日本海軍による接収

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1945年(昭和20年)5月初めにドイツが降伏した後、U-195は日本海軍に接収されて第102工作部で整備され、7月15日に艦籍に入って伊号第五百六潜水艦となり、第二南遣艦隊に編入された。

艦長以下日本人乗員は潜水艦要員の不足により配置されず、運用はドイツ海軍兵船員が当たった。入籍が戦争末期であったために活躍することなくスラバヤで終戦を迎える。9月、インドネシア人民治安軍に捕獲されたが、すぐにイギリス軍により奪還された。11月30日除籍。1946年(昭和21年)2月16日、南緯06度50分 東経114度42分 / 南緯6.833度 東経114.700度 / -6.833; 114.700バリ海でイギリス軍により海没処分された[12]

撃沈隻数は2隻、計14,391トンにのぼる。また、商船1隻、6,797トンに損傷を与えた。

脚注

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(リンクについては翻訳にあたっていずれも2010年10月21日閲覧。)

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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