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宮津藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丹後藩から転送)

宮津藩(みやづはん)は、江戸時代丹後国にあったの一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は与謝郡宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。

略史

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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に細川忠興豊前小倉藩へ移されると、丹後国には信濃飯田藩より京極高知が田辺城に入り(幕府に届け出た正式な居城は宮津城)、丹後一国を領した(丹後藩)。のちに拠点を宮津城に移す。

高知の死後、嫡男の高広が第2代宮津藩主となり、三男の高三田辺藩(舞鶴藩)に、甥で婿養子の高通峰山藩に入れ、丹後に3藩を並立させた(本家の宮津藩に対して分家の2支藩を分知したとする見方もある)。したがって、幕末期までの宮津藩の領域は高広の時代に成立したといえる(ただし、時代により変動はあった)。高広の子高国寛文6年(1666年)、幕府に悪政・一族不和などの不行跡を咎められ、改易となった(旧宮津藩京極家自体は高家旗本として存続した)。

幕府直轄を経て、寛文9年(1669年)、永井尚征山城淀藩より入部した。奏者番となった第2代藩主・尚長延宝8年(1680年)、第4代将軍徳川家綱の葬儀が増上寺で行われた際、乱心した志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に殺害された。尚長には嗣子がなく、永井家は改易となった。後に弟の直円大和櫛羅藩1万石が与えられて再興している。

天和元年(1681年)、阿部正邦武蔵岩槻藩より入部するが、元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に転出している。入れ替わりに同地より奥平昌成が入部し、同15年12月14日(1703年1月30日)、元禄赤穂事件が起こると宮津藩士が屋敷前で見張り、赤穂義士を尋問して鉄砲洲の旧・赤穂藩邸へ行けないようにしている[1][注釈 1]。奥平家も享保2年(1717年)には豊前中津藩に転出する。

代わって信濃飯山藩より青山幸秀が入部した。第2代藩主・幸道宝暦8年(1758年)、美濃郡上藩に移封となるなど、目まぐるしく入れ替わった。

遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、ようやく藩主家は定着をみることとなった。松平(本庄)家の家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子資俊より松平姓を許された。同家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として戦ったが敗戦し、以後は明治政府に恭順した。

明治4年(1871年廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府に編入された。藩主家の松平(本荘)家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)に子爵となった。

宮津藩本荘家の家臣団

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宮津藩本荘家の家臣の履歴は、京都府立総合資料館において古文書(宮津藩文書)が一般に公開されている。

歴代藩主

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前史

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丹後国守護

  1. 丹後一色氏(1392年 - 1573年)

宮津城11万石(織田信長

  1. 細川藤孝(1573年 - 1582年、肥後細川家
  2. 細川忠興(1582年 - 1620年)

京極家

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外様 12万3千石→7万8千石 (1600年 - 1666年)

  1. 高知(たかとも)〔従四位下、丹後守・侍従〕
  2. 高広(たかひろ)〔従四位下、丹後守〕分知により7万8千石
  3. 高国(たかくに)〔従四位下、丹後守・侍従〕

幕府直轄領

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(1666年 - 1669年)

永井家

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譜代 7万3千石 (1669年 - 1680年)

  1. 尚征(なおゆき)〔従五位下、右近大夫〕
  2. 尚長(なおなが)〔従五位下、信濃守 奏者番〕

阿部家

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譜代 9万9千石 (1681年 - 1697年)

  1. 正邦(まさくに)〔従五位下、対馬守〕

奥平家

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譜代 9万石 (1697年 - 1717年)

  1. 昌成(まさしげ)〔従四位下、大膳大夫〕

青山家

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譜代 4万8千石 (1717年 - 1758年)

  1. 幸秀(よしひで)〔従五位下、大膳亮〕
  2. 幸道(よしみち)〔従五位下、大和守〕

松平〔本庄〕家

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譜代 7万石 (1758年 - 1871年)

  1. 資昌(すけまさ)〔従五位下、伊予守〕
  2. 資尹(すけただ)〔従五位下、大隅守〕
  3. 資承(すけつぐ)〔従五位下、伊予守 寺社奉行〕
  4. 宗允(むねただ)〔従五位下、大隅守〕
  5. 宗発(むねあきら)〔従四位下、伯耆守・侍従 老中〕
  6. 宗秀(むねひで)〔従四位下、伯耆守・侍従 老中〕
  7. 宗武(むねたけ)〔従五位下、伯耆守〕

幕末の領地

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明治維新後に、与謝郡4村(旧幕府領)が加わった。

宮津県

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宮津県(みやづけん)は、廃藩置県により1871年(明治4年)に設置された。同年10月に豊岡県に統合され消滅した。県域は現在の宮津市与謝郡に設置されていた。

沿革

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  • 1871年(明治4年)7月14日:廃藩置県により宮津藩(7万石)が宮津県として発足。
  • 1871年(明治4年)11月22日:豊岡県に統合。
  • 1876年(明治9年)8月22日:豊岡県廃止により京都府へ合併。

参考文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 江戸名所図会』(築地鉄砲洲)では浜田藩の松平周防守(松平康宦)が通行を阻んだことになっている。

出典

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  1. ^ 奥平家文書『桜井惣右衛門正朝書翰』

外部リンク

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先代
丹後国
行政区の変遷
1669年 - 1875年 (宮津藩→宮津県)
次代
豊岡県